昭和39年、東京五輪の年に誕生「純連」と「すみれ」の関係とは?
東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年、札幌「純連(すみれ)」は産声を上げました。創業者の村中明子(むらなか・あけこ)さんは、当時札幌を席巻していた「味噌ラーメン」とは違い「もっとコッテリしていて若い人たちが集まるような味噌ラーメン」をと思い、ほぼ独学で現在の味噌ラーメンを作り上げました。
屋号「純連」は「若い人がたくさん集まる」という意味を持ち、純連と書いて「すみれ」と読みます。
では何故「純連(じゅんれん)」「すみれ」の2つ店舗が存在するでしょうか?簡単に説明しますと明子さんの長男である村中教愛(のりよし)さんが「純連(じゅんれん)」の店主であり、三男である村中伸宜(のぶよし)さんが「すみれ」の店主なのです。
「すみれ」なのに、いつしか「じゅんれん」と呼ばれて
しかしこれだけの説明では全てを語れません。
昭和39年の開業当時は「純連」と書いて「すみれ」と呼びました。しかし、オープンして月日が経ち、看板の純連の上に書いてあったフリガナが、長年の雨風によって取れてしまい、本当の屋号を知らないお客様が、「じゅんれん」と呼ぶようになったのです。
その後、札幌屈指の人気店となった「純連(じゅんれん)」でしたが、昭和57年の6月末に、突然店を閉めることになったのです。それは明子さんが股関節亜脱臼になり、これ以上続ける事が出来なくなったからなのです。
しかし、明子さんは諦めることができず、翌昭和58年に、約1年間のブランクを経て「純連」を再開しました。
この時、当時のお客様のほとんどが「純連(じゅんれん)」と呼んでいたため、「すみれ」とは呼ばず「じゅんれん」の屋号で再開することとなったのです。その後、あとを継いだ長男の教愛さんが昭和62(1987)年に「純連(じゅんれん)」の名で店をオープン。
平成元年には三男の伸宜さんが「純連(すみれ)」の名で店をオープンしました。
こうして明子さんが作り上げた味は2つの屋号で現在まで継承されているのです。
■「すみれ」と「純連」の歴史年表
昭和39年に創業した「純連(すみれ)」から、幾度となくオープン、閉店、移転を繰り返してきた歴史を、当時の外観と共に振り返ります。札幌市内の移動だけでなく、ラー博内の動きも含めた、完全保存版の歴史年表です。