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前澤義雄氏がデザイン

初代プリメーラでデザインしたのは前澤義雄氏。前澤氏はコンセプトカーのMID4(1985年)、MID4-II(1987年)、3代目マキシマ(1988~1994年)、4代目パルサー(1990~1995年)、Z32フェアレディZ(1989~2000年)などのデザインを手掛けてきた。

初代プリメーラも前澤氏の代表作のひとつだ。

前澤氏は1993年に日産を退社後フリーランスに転身。筆者が在籍していた自動車雑誌『ベストカー』でもお仕事をお願いしていた。筆者は2002年から前澤氏がお亡くなりになる2014年までの12年半続いた連載『デザイン水掛け論』を立ち上げ時から担当。眠狂四郎的シブさを持つ前澤義雄氏と軽妙な清水草一氏の掛け合いが絶妙なベストカーの名物連載だった。

前澤義雄氏とスカイラインのツーショット

デザインの自由度が低い

03年の『デザイン水掛け論』で初代プリメーラの話が出た時のこと。初代プリメーラのデザインを絶賛する清水氏に対し、イマイチ乗り気でない前澤氏。

どうやら周囲から絶賛されていた初代プリメーラのデザインだが、前澤氏自身は傑作とは思っていなかったようだ。これは意外だが、「デザインの自由度が低すぎた」とのこと。

欧州マーケット向けのクルマだったため、空力の追求と各部の冷却(前澤氏は”冷熱”と表現)の追求が必須だったため、デザインで特徴を出そうにも制約が多すぎたという。

実は前述の「初代プリメーラが日本で売れるとは誰も思っていなかった」と証言した日産関係者とは前澤氏だったのだ。

室内は機能的だったが、インパネ回りはプラスチック素材が剥き出して質感はそれほど高くなかった

すべての点でハイレベルな万能セダン

前澤氏の予想を裏切るかのように初代プリメーラは日本で堅調に売れた。1995年9月に2代目にバトンタッチするまでに約34万台を販売。オースターがお世辞にも人気モデルではなかったため日産のドル箱となった。

初代プリメーラは落ち着いたデザイン、ドイツのFF車を凌駕するハンドリングなどが人気の要因だったが、もうひとつ忘れてはいけないのが室内、トランクともに広く、小型セダンとして高い実用性を備えていたことだろう。

今思い返しても、初代プリメーラは走る、曲がる、止まるという走りの三拍子を高いレベルで実現し、デザイン、パッケージング、実用性にも優れた万能セダンだった。

2Lクラスのセダンとしては当時最も広かったのも魅力だった

【初代プリメーラ2.0Tm主要諸元】
全長4400×全幅1695×全高1385mm
ホイールベース:2550mm
車両重量:1180kg
エンジン:1998cc、直列4気筒DOHC
最高出力:150ps/6400rpm
最大トルク:19.0kgm/4800rpm
価格:194万2000円(5MT)

【豆知識】
ピニンファリーナはイタリアを代表するカロッツェリアで、数多くのフェラーリのロードカーをデザインしてきたほか、自動車メーカーからの依頼によりオープンカーを手掛けてきた。ミトス(MYTHOS)は東京モーターショー1989で公開されたモデルで、フェラーリテスタロッサをベースにスペシャルボディが架装されている。市販化されなかったが、ミトスのデザインはその後に登場するスーパースポーツに大きな影響を与えたと言われている。これが日本で初公開されたことが凄すぎる。

ベースはピニンファリーナがデザインしたフェラーリテスタロッサ。市販されなかったのは残念

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/NISSAN、ベストカー

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