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皇后自ら洋装化を進めて日本の近代化を促進

大中寺では皇后をはじめ皇族を迎えるための御殿を新築し、嘉仁皇太子の側近の三島中洲によって「恩香殿」と命名された。明治43年2月、皇后は観梅後に新築の恩香殿で昼食を召されている。その後、毎年4月のタケノコ狩りをご覧になった時には、恩香殿で昼食されたこともあるが、皇后の一行には食事を担当する大膳課の係員が随行する。このため、昼食の際にタケノコご飯などが振る舞われたのか、は定かでない。しかし、明治45年4月の訪問の際には、大中寺からタケノコ12貫目を献上され、皇后に供奉するお供の者に「里芋甘藷蒸物」などを提供されたとの記録もある。

何よりも、皇后と大中寺との交流の深さを示す証(あかし)がある。皇后皇太后から大中寺に下賜された白羽二重(しろはぶたえ)の絹地を用いてつくられた袈裟(けさ)だ。金糸で寺紋五三桐を、色糸で牡丹を刺繍した。牡丹の刺繍は、皇后が滞在した白雲軒の軒下に植えてあったことにちなむ。

皇太后が大中寺に下賜した白羽二重で調製された袈裟

寺では、桐箱に入れて大切に保管していたが、下山住職は「一介の山寺の住職に、昭憲皇太后さまから当時の最高級品種である小石丸で作られた白羽二重が下賜されたこと自体、異例中の異例でしょう。皇太后さまの温情を後世に伝えるため、寺では住職の法衣である袈裟に仕立てた。完成後、恩賜の法衣を皇太后さまにもご覧になって頂いた栄誉にも浴した」と目を細める。

皇后は、日本が近代化していく中、女子教育の育成や福祉、医療の推進に尽力した。とりわけ、初代総理大臣の伊藤博文が進める宮中改革に協力し、明治19年7月に初めて洋装で華族女学校に外出して以来、洋装で外国人と面会するなど西欧流の新たな役割を次々と引き受けた。皇后が昼食会や面会などの際に着用した「仕事着」の宮廷ドレスも全国各地の神社仏閣などに残されている。

大中寺に下賜されたものは宮廷ドレスではないが、それに準じる品格を感じさせる贈答品だった。

明治の皇后が亡くなられて今年で110年。命日の4月11日、寺では毎年、恩香殿の仏前にタケノコご飯や若竹汁(タケノコとワカメのお吸い物)などを供える。

吉原康和(よしはら・やすかず)
ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。

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吉原康和
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