80点主義のトヨタが、クルマ好きから期待されるメーカーに変貌するきっかけとなったのが初代bBです。本流ではありませんが、トヨタにとって非常に価値のあるクルマだったのは間違いありません。その理由について考察していきます。
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第39回目に取り上げるのは2000年の「ミレニアム・イヤー」に登場し、手頃なサイズのハイトワゴンとして人気となった初代トヨタbBだ。
動乱の世紀末
トヨタは1997年に世界初の量産ハイブリッドカーの初代プリウスを登場させた。しかしその一方で、販売不振に陥ったセダンに代わるポストセダンの模索で『セダンイノベーション』を掲げて、ニュージャンルカーと呼ばれるクルマを数多く登場させるなどトライ&エラーを繰り返していた。成功失敗の結果に関係なく、そのどれもがチャレンジングだったのはトヨタの意地を感じさせた。
とにかく1998年以降は「またトヨタからブランニューカーが登場した!!」、と感じるくらいニューカーが多かったのを覚えている。
ヴィッツシリーズ誕生
そんな矢継ぎ早にニューカーを登場させていたトヨタは、1999年1月にスターレットに代わる主力コンパクトカーのヴィッツを登場させた。キュートなデザインとキビキビと走る気持ちよさで瞬く間に大ヒットモデルとなり、世界のコンパクトカーにも大きな影響を与えたのは周知の事実だ。
同年8月には背を高くしてユーティリティ、実用性をプラスしたハイトワゴン(トールワゴンとも呼んだ)のファンカーゴを追加。今回取り上げるbBはヴィッツ、ファンカーゴとプラットフォームを共用している。
若者をターゲット
bBはファンカーゴと同じハイトワゴンながら、ファンカーゴがファミリーユース、商用ユースまでカバーすることを想定していたのに対し、bBは若者をターゲットとして開発された。極端な話、若者を取り込みさえすればいいクルマだった。
現在は若者のクルマ離れが深刻化している。クルマが最も買っているのは50代以上の世代で、特に公共交通網が発達している都市部では、20代の独身が新車を買うケースはかなり少なくなっている。bBがデビューした2000年当時はそれほどまで深刻になるレベルではなかったが、トヨタはいち早く危機感を抱いていたのはさすがだ。
画期的な開発手法を導入
トヨタはbBを開発するにあたり当時としては画期的な手法を導入。バーチャル・リアリティと呼ばれるもので、試作車を作らずCGなどを駆使してフルデジタル設計することによって開発時間、開発コストは大幅に削減された。
当時の技術でこれが可能となったのは、プラットフォームを共用する同じハイトワゴンのファンカーゴがあったからだという。初代bBの開発手法は、その後のトヨタの開発において大きな意味を持っていた。
初代bBを手掛けたのは多田哲也氏
バーチャル・リアリティという方法で開発が進められた初代bBの開発責任者は多田哲哉氏だ。多田氏は三菱自動車に入社しエンジニアとして活躍した後に独立。そして1987年にトヨタに入社、こよなく走ることを愛し、ラリー好きなカーガイだ。
多田氏は2013年に登場した86の開発責任者で有名になり、いろいろなメディアにも登場。当然自動車雑誌『ベストカー』でもおなじみだ。
BMWと共同開発したGRスープラも多田氏が手掛けたこともあり、根っからのスポーツ畑のように感じるが、多田氏がトヨタ入社後に初めて開発責任者になったのが初代bB(2000~2005年)で、そのほかには2代目ラウム(2003~2011年)、初代パッソ(2004~2010年)、ファンカーゴの後継のラクティス(2005~2010年)といった実用車を手掛けている。
後述するが、多田氏が手掛けた初代bBと86を手掛けているというのが因縁めいている。
車名の由来はブラックボックス
初代bBは若者向けに仕立てられていて、前述のとおり特に20代をターゲットとしていた。そのためそれまでのトヨタ車にはないいろいろな要素が盛り込まれている。
まず車名について。bBというのはBLACK BOX(ブラックボックス)の略語とされている。ブラックボックスは、中身のわからない不気味なもの、と言う意味があるが産業界では内部機構が見えないように密閉された機械装置を意味している。それをトヨタポジティブに、『未知の可能性を秘めた箱』という意味で命名。車名のロゴもこだわっていた。
大文字と小文字をミックスしているのは諸説あるが、騒音レベル、音楽などで使われるdB(デシベル)に由来しているという説もある。ビービーという車名は言いやすく、耳ざわりもいいため、ブランニューモデルながらあっという間に浸透した。
アラカンの筆者世代からすればビービーと言えば、フェラーリ512BBだった。オモシロいのは、筆者よりももっと上の世代(現在75歳前後)は、BBといえばブリジッド・バルドーだったようで、それゆえbBのことを彼女の愛称のべべと呼んでいる人もいた。
シボレーアストロ風のデザインを採用
初代bBを開発するにあたっての開発テーマは以下の2点。
(1)ひと目でわかる存在感のあるトールボックススタイル
(2)若者のさまざまな使い勝手をサポートすることができる広く快適な空間
そのため車名を体現するスクエア感を強調したデザインを採用。四角くすることで室内スペースも確保できるということで一挙両得というわけだ。
デザインは日本でも大人気だったシボレーアストロを彷彿とさせた。デビュー当時から『ミニアストロ』と呼ばれていたように、フロントマスクなどもちょっとワルなイメージも盛り込まれている。ストリート系の若者など、生真面目なデザインよりもちょっと悪さを感じさせるほうがウケがいいのは時代に関係ない不文律だ。同時期にファンカーゴが販売されていたが、若者がどっちを選ぶ? となればbBとなるのは必然だった。
室内スペースについては、むやみに広い空間ではなく、若者がいろいろな遊びに使ったりくつろぐのに必要十分なスペースを提供。全高を1640mmとすることで室内の頭上空間に余裕が生まれ、スペック以上の広々感が実現できる。これは現代のスーパーハイトワゴン軽自動車人気に通じるものだ。
アメリカ向けに開発された日本車はことごとく失敗
若者をターゲットとするにあたり参考としたのがアメリカ。日本車はアメリカよりも欧州、特にドイツ志向でいろいろなクルマが登場していたが、若者はアメリカの文化、ファッションからの影響は大きい。そこでトヨタは、アメリカの若者がバンなどを自分好みに自由にカスタマイズして楽しんでいるのに着想。
日本車にもいろいろあり、アメリカをターゲットとしたモデルも開発された。しかし、往々にしてアメリカ向けの日本車は販売面で失敗。成功したのは初代USアコードワゴンくらいだろう。そんななか、初代bBは空前のヒットモデルとなった。
仰天の東京オートサロン2000
しかし、トヨタの考えるコンセプトは理解されなければ意味がない。これまでもアメリカンテイスト、アメリカの文化を盛り込んだクルマはあったが、マニア受けこそすれど、一般大衆にまで影響力を及ぼすほどのモデルはなかった。
そこでトヨタが着目したのがチューニングカー、ドレスアップカーの祭典の『東京オートサロン』。トヨタはそれまでも東京オートサロンにブースを出してきたが、広いブースを確保してbB特設コーナーを作った。以来、トヨタは現在に至るまで東京オートサロンを新型車公開の場として重要視している。そういう意味では、きっかけは初代bBだったと言える。
ノーマル車は1台もなし!!
初代bBは2000年1月7日の東京オートサロン2000で正式発表され、2月3日から販売を開始。販売チャンネルはトヨタの若者向け車種を扱っていたネッツ店だ。
クルマ好きの若者が大集結する東京オートサロンは、若者をターゲットとした初代bBの新車発表の場として打って付けなのだが、トヨタはその場にノーマルカーを一台も展示しなかったのだ。トヨタに関連するのは、モデリスタのストリートビレット、ディーラーオプションを装着したキャルルックセレクション、スーパーVセレクションの3台のみで、そのほかはアフターで人気のあったDAMD、KEN STYLE、ジアラ、WALDといったドレスアップブランドによってカスタマイズされたモデルだけを展示。
当時筆者はベストカー編集部員として現地に取材に行ったが、正直これには驚かされた。同時にトヨタの本気を感じた。
初代bBのマーケティング手法が86へと引き継がれた
トヨタで言えばモデリスタ、TRDは新型車開発の段階からエアロや各種パーツの開発が可能で、新型車と同時に商品を発表できる。それに対し、アフターメーカーがパーツなどを開発するのは実車が発表されてから自らがクルマを入手するなどして開発が始まる。
しかし、初代bBは発表前の車両をアフターメーカーに供給し、自在に開発させたというのがポイントだ。トップメーカーのトヨタがクルマ界の常識を破り、自動車メーカーとアフターメーカーの共存の第一歩が始まった瞬間だったように思う。
多田氏が86と初代bBを手掛けていることが因縁めいていると書いたが、実はこの手法は86にも採用されたのだ。86はデビュー前に車両を提供するということはなかったが、デビュー翌年の東京オートサロン2013では、トヨタはチューニング、ドレスアップのアフターメーカーを多数集めて『86/BZRワールド』を展開したのだ。その後86はトヨタとアフターメーカーが共存共栄で進化してきた。
使い勝手のよさもヒットの要因
初代bBのエンジンは1.3L、1.5Lの直4DOHCで、トランスミッションはコラム式4ATを採用。これはフロントシートをアメリカンスタイルのベンチタイプにするため。2名がけながら、サイドスルーも可能と使い勝手がいい。初代bBはアメリカのサイオンブランドでも販売されたが、ATはフロア式での5MTの設定もあった。
コンパクトかつ四角いボディなので前後の見切りがいいため、トヨタがターゲットとした若者だけでなくファミリー層まで幅広い人気となった。
初期受注は月販目標の5000台に対し3万2500台。ブランニューモデルながら5000台を目標にするトヨタも凄いが、その思惑をはるかに超える反響により6.5倍を受注。初期受注だけでなくその後も順調に売れた。
個性的なオープンデッキは苦戦
2001年にはピックアップトラックタイプのbBオープンデッキを追加。4ナンバー登録の商用車ではなく、5ナンバー登録の乗用車だった。実はこのオープンデッキは、東京モーターショー2019に出展されていたのだ。
ボディ補強などによる重量増もあったので、エンジンは1.5L、直4のみの設定。駆動方式はFFのみで4WDは設定されなかった。ドアは運転席側1、助手席側が2の1+2の変則3ドアで、助手席側はピラーレス(Bピラーがない)の観音開きドアとなっていた。
後席からリアウィンドウを跳ね上げ、デッキスルードアを倒せば、デッキ部分とリア部分をつなげることができ、荷室スペースを拡大することができた。乗降性にも優れいろいろ若者が楽しめるように工夫が凝らされていたが、販売面では苦戦。2003年3月末をもって生産終了となってしまった。
イケイケのトヨタの口火
思い返せば、トヨタがイケイケ状態になったのは初代bB登場あたりからだった。86/BRZの登場により、瀕死の状態だったアフターメーカーが息を吹き返して盛り上がったのだが、自動車メーカーとアフターメーカーの共存共栄を目指したという点では初代bBの成功は大きな要素だ。
トヨタはよくも悪くも『80点主義』などと称されてきたが、bB以降は何かやってくれそうとクルマ好きに期待を抱かせるメーカーへと変貌していった。初代bBでのあらゆる戦略はトヨタのイメージを変える契機となったと言っていいかもしれない。
トヨタにとってbBはカローラやクラウンのような本流ではないが、ある意味『トヨタの革命児』だったのかもしれない。
【初代トヨタbB 1.5”X Version” 2wd主要諸元】
全長3845×全幅1690×全高1640mm
ホイールベース:2500mm
車両重量:1040kg
エンジン:1496cc、直4DOHC
最高出力:110ps/6000rpm
最大トルク:14.6kgm/4200rpm
価格:157万8000円(4AT)
【豆知識】
大ヒットした初代の後を受け、2代目bBは2005年にデビュー。ボディサイズ、基本的なプロポーションは初代を踏襲していたが、曲面を多用していた。プラットフォームは初代がファンカーゴだったのに対し、2代目はパッソとなりダイハツと共同開発。音楽に特化したキャラが与えられ、動くミュージックボックスなどとアピール。くつろぎ空間を演出する『まったりシート』も採用。デビュー当初は人気だったが、エコカー減税の対象外だったこと、初代ほどの新鮮さがなかったこと、ドレスアップ素材としては初代ほど魅力的でなかったなどの理由で徐々に販売台数を落とし、2016年に生産終了。その後継がタンク/ルーミーとなる。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/TOYOTA、モデリスタ、CHEVROLET、ベストカー