1935(昭和10)年のこと、当時はまだ「東京横浜電鉄」と名乗っていた東横線。沿線の発展により乗客の増加は著しく、加えて法政大学、青山師範(現・学芸大学)の移転開校、慶応大学の拡張による通学生徒の増加が見込まれるなど、混雑緩和は喫緊の課題となっていた。当時の社会情勢は、世界恐慌による不況と資金難という時代であり、いかに設備投資を抑制し、輸送力を増強するかが課題となっていた。そこで登場したのが、「ガソリンカー」だった。電力とガソリンの併用は、吉と出たか、凶と出たのか。戦前期における東横線の一時代を振り返ることにしたい。
※トップ画像は、東横線の多摩川橋梁(多摩川園前駅〔当時〕~新丸子駅間)をゆく急行渋谷行き「ガソリンカー」(キハ1形〔キハ2〕)=撮影年次不詳、撮影/鈴木靖人
経済的に優れたガソリンカーの導入
1935(昭和10)年の東横線は、すでに渋谷駅~桜木町駅間が開通しており、目蒲線(現・目黒線の一部と東急多摩川線)と池上線を経営していた目黒蒲田電鉄とは「提携」の間柄にあった。東横線沿線の発展とともに沿線人口と通学生徒の増加は、より一層の混雑を助長することとなり、混雑緩和のための輸送力増強は喫緊の課題となっていた。東横線は1926(大正15)年2月の開業以来から電気鉄道であり、輸送力を増強するには「電車」と電力を供給するための「変電所」の増備が、絶対条件だった。
当時、電車1両あたりの製作費は4万円といわれ、さらに変電所の設備増設には9万円を必要とした。そこで、東京横浜電鉄は電車よりも安価だったガソリンカーに目を付け、電車とガソリンカーの経済比較を行った。ガソリンエンジンは、モーターに比すれば寿命は短いが、車両単体価格でみれば電車よりもガソリンカーのほうが1万円も安く購入できることや、変電所の増設費が不要となるなど、経済的に優れているガソリンカーの導入を決定した。








