全ての自衛官は「反戦自衛官」ではないのか
Yはその後ほどなく、外部の反戦活動家と結びつき、防衛庁の正門前で制服姿のまま抗議文を読み上げて懲戒免職となった。以後の消息は知らない。
事件の後、私も連隊の情報幹部に呼び出されて尋問を受けたが、教育隊で語り合ったことや神保町の喫茶店で論じ合ったことについては、何も口にしなかった。関りを避けたわけではない。彼の純粋な人となりを知る私にとって、Yが自衛隊からあしざまに言われるほど罪深い人間であったとは、どうしても思えなかったからである。
ウェスト・ポイントに留学していたというエリートの情報将校は部隊の名物で、いつもこれ見よがしのグリーン・ベレーをかぶり、レイバンのサングラスをかけていた。こんなやつにYが罵(ののし)られるいわれはないと思った。
尋問の途中で「反戦自衛官」という言葉がさかんに彼の口からで出たので、「Yは反戦自衛官ですが、それを言うなら自分も反戦自衛官です。自衛官は全員反戦自衛官ではないのですか」、と言ってやった。以来私は、この幹部にだけはどこですれちがってもことごとく欠礼をした。もし咎(とが)められたらたちどころに言い返してやろうと考えていたが、幸か不幸かその機会はなかった。安保の是非は別としても、私は自衛官の名誉と日本男子の矜(ほこ)りにかけて、グリーン・ベレーに敬礼する理由をもたなかった。
ダブダブの軍服を着て死んだ少女
私事はさておき、あれから四半世紀の時を経て、再び古い沖縄戦の資料を繙くことになった。新たに問題が提起されるまで、なぜ忘れていたのだろうと反省しきりである。
昭和57年那覇新聞社発行の『沖縄戦』と題する記録集の中に、一葉の写真がある。それを見たとたん、私は他の資料を読み進む勇気を失った。
草木一本すらない乾いた瓦礫(がれき)の上に、一人の少女が仰向けに死んでいる。ライフルを持った米兵が少女の雑嚢(ざつのう)の中から手榴弾を取り出しながら、悲しげに死顔を見つめている。
解説には従軍看護婦とあるが、その屍(しかばね)は私たちが映画で見たひめゆりの少女たちの姿とは余りにかけ離れている。少女が身にまとっているものは白いブラウスでも絣(かすり)のモンペでもなく、ダブダブの軍服なのである。上半身は真黒な血に染(そ)んでおり、大地に投げ出された小さな足には、やはりブカブカの軍靴をはいている。鉄帽がかたわらにはじけ飛んでおり、胸のポケットからは四発の小銃弾がのぞいている。雑嚢の血だらけの蓋に「照」という文字が読み取れる。「照子」もしくは「照代」という少女の名前であろうか。あるいは「照屋」などという、沖縄にはよくある苗字(みょうじ)かもしれない。
鼻腔(びこう)から血を流して事切れている少女の顔は白い。瞳はうつろに、戦場となったふるさとの空に向けられている。彼女がおそらく私の娘と同年配であろうと考えついたとき、それ以上の資料を読み進む勇気を、私は失った。
鉄血勤皇隊やひめゆり部隊を初めとする女子学徒隊は、今でいう中学生と高校生で編成されていた。その総数は2361名に及び、過半数の1224名が死んだ。1平方メートルあたり10トンも降り注いだ鋼鉄の雨に打たれ、1500隻の艦船から上陸してきた183,000の米軍に立ち向かったあげく、虫けらのように嬲(なぶ)り殺されたのである。
流行歌のかわりに軍歌を唄い、美しい母国語を吶喊(とっかん)の悲鳴に変えて死んでいった少女は、撃ち倒されて仰ぎ見たふるさとの夏空に、いったい何を思い、何を見たのであろう。ダブダブの軍服を着せられ、鉄甲(てつかぶと)をかぶせられ、銃を持たされた少女は、おそらく恋も学問の楽しみもしらなかった。だが、自分の死ぬべき理由だけは、正確に知っていたと思う。それは祖国のために死ぬということ、日本のために死ぬということである。