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四半世紀を経て残る「生涯の悔い」

鉄血勤皇隊として摩文仁(まぶに)の玉砕地に生き残った大田昌秀知事の主張するところに、議論の余地は何一つとしてない。誰が書類にサインをするかなどという政府のとまどいは、論ずるに愚劣である。

考えても見てくれ。大田昌秀という人は、あの戦を自ら体験したばかりか、戦後東京の大学に学び、米国に留学し、すべてを理解したのち沖縄県知事として立ったのである。平和な世の中で保身に汲々(きゅうきゅう)とし、時勢の赴(おもむ)くままにころころと節を曲げる正体不明の議員たちとは、そもそも人間としても政治家としても、物がちがうのである。もちろん重大な国際会議の予定を寸前でキャンセルするような不見識な大統領とは、全く比較にならぬ大人物なのである。

私は四半世紀前のあのとき、なぜYの言わんとするところを真剣に聞かなかったのだろうと、今にして悔いている。耳に残るものが彼の主張ではなく、隊舎の非常階段で彼の吹いたハモニカの音色だけであることを、深く恥じている。この先も、生涯の悔いとして残ると思う。正当な主張を誰にも聞いてもらえなかったYは、ハモニカのメロディにやり場のない怒りと悲しみを托(たく)するほかはなかったのであろう。

県知事の温厚な表情のうちには、50年間少しも変わらぬ鉄血の流れていることを、われわれは知らねばならない。少なくとも私は、古今東西のどのような偉人にも増して、大田昌秀知事を尊敬している。

氏は、目に見える正義そのものである。正義を看過する悪魔の所業を、われわれは二度とくり返してはならない。

(初出/週刊現代1995年12月9日号)

反戦自衛官事件とは

沖縄の本土復帰直前の1972年4月27日、六本木にあった防衛庁前に、報道陣を引き連れた5人の現役自衛官が現れ、自衛隊の沖縄移駐に反対する声明を読み上げた。5人は懲戒免職となるが、そのなかには、沖縄今帰仁村出身で、当時20歳だった一等陸士がいた。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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