新横浜ラーメン博物館への出店 ボディーガードを連れて交渉
当館が小栗さんに出店の話を持ち掛けたのが1992年4月27日。その交渉記録によると「声をかけてもらったのは嬉しいし、興味はあると言われているが、非常に警戒をされていた」とのこと。
交渉時に小栗さんはボディーガード兼相談役として、ボクシング部出身の男性を同席されていました。契約後に聞いた話では「私は若いころ色々な人に騙されてきたので、今回も騙されるのではないかという不安があった。また見た目は男性のように見えるが女性であるため、何かあった時のボディーガードとしていつも同行してもらっていた」とのことです(笑)。
その後の交渉で小栗さんは3つの不安点を挙げていました。
1つ目は「新横浜の状況を見て、空き地だらけでこんな場所に人が集まるのか」、2つ目は「あまりにも条件が良すぎることが怪しい」、3つ目は「仮に出店するとなった時にラーメンを作れる人材が足りない」という3点でした。
1つ目の不安は小栗さんに関わらず多くの店主さんが抱いた不安でした。開業する私たちにとっても「絶対来る」とは断言できないことではありましたが、「世界初のラーメンの博物館に人は集まる!」という想いを伝えました。
2つ目の条件というのは以前のコラムで書いたように、内装工事から厨房機器まで全てラー博側が負担をし、売上が0だったら家賃も0という条件の事を指していました。出店側のリスクを軽減し、運命共同体の想いでこの条件にしました。
3つ目は出店する多くのラーメン店も余剰人員を抱えているわけではないので、1年以上ある開業に向けて人を雇い、人材を作るという考えで合意していただきました。
ラー博オープン、車で数時間仮眠をとる日々
不安をよそに、開業するや否や毎日多くのお客様が来館されました。小栗さんは仕込みが間に合わないため、車で数時間仮眠をとり、仕込みをして営業する日々が続きました。
「たくさんのお客様にお越しいただくのは本当に嬉しいことではありますが、あの時は本当に大変でした。当時いた従業員もベテランではなかったのでとにかく私が常に現場に立たないと回りませんでした」とのこと。
次第に忙しさにも慣れ、従業員も成長してきた翌年、原宿に2号店をオープン。小栗さん曰く「私にとって最も重要なのが“人財”(財は従業員は財産であるという意味から)。だからこそ私の夢は、従業員が安心して暮らせられる収入を得られること。そのためには年商10億のラーメン店になること」と夢を語ってくれました。