今年も終戦の日を迎えた。戦中、満州には約27万人の日本人が満蒙開拓団として移住し、終戦後には引き揚げの混乱の中で多くの命が失われた。戦争の犠牲者への追悼と慰霊を続けられている上皇陛下と美智子さまは、満蒙開拓団の人たちにも…
画像ギャラリー今年も終戦の日を迎えた。戦中、満州には約27万人の日本人が満蒙開拓団として移住し、終戦後には引き揚げの混乱の中で多くの命が失われた。戦争の犠牲者への追悼と慰霊を続けられている上皇陛下と美智子さまは、満蒙開拓団の人たちにも長い間心を寄せ続けてこられた。長野県軽井沢町には、満蒙開拓団の生き残りの人たちが開墾した「大日向(おおひなた)開拓地」がある。上皇陛下と美智子さまは夏の間、軽井沢でご静養される際に、しばしば大日向開拓地を訪れて、引揚者や家族たちと交流を持たれてきた。今回は、大日向開拓地での食の物語である。
軽井沢の大日向開拓地へのたびたびのご訪問
終戦から70年たった2015年、上皇陛下(当時は天皇陛下)はお誕生日に際しての記者会見でこう述べられている。
「……夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました」
そして、年々戦争を知らない世代が増加していくが、先の戦争のことを充分に知って、考えを深めていくことが極めて大切、と続けられた。
「分村移民」村を二分して満州に移住
軽井沢町の大日向開拓地は、満州に渡った人たちが戦後引き揚げてきて開拓した土地である。現在の長野県佐久穂町にあった大日向村は、満州に移住する「分村移民」を1937年に決めて、先駆けて行った。しかし、終戦後に帰国できたのは半数ほどにすぎなかったという。満州と元の大日向村の両方を失った人々は、軽井沢に移って新たな「大日向」をつくり、高原野菜のレタスなどを育てた。大日向開拓地を訪れた上皇陛下と美智子さまは、しばしばレタス畑を散策されている。
上皇陛下と美智子さまは、天皇陛下や秋篠宮さま、清子さんがお小さいころから、家族ぐるみで開拓団の方たちと交流を持たれてきた。軽井沢にご静養にいらした際には、子どもたちを地域の子ども会に入れて、さまざまな行事に参加させたりもした。清子さんは、大日向の開拓農家の集落にある保育園に通われたこともあった。地域の子どもたちとご一緒に過ごされる体験は楽しい思い出となっていることだろう。
塩で味付けされただけのレタス
清子さんが保育園に行っている時間を利用して、上皇陛下と美智子さまは、開拓団の家を訪問して、戦争当時の話に耳を傾けた。そんなとき、開拓団の方たちは、レタスの塩もみをお二人に食べていただきながら、終戦当時の様子を話されたという。塩で味付けされただけのレタスは、苦労を重ねて開墾したころの貴重な食べ物だったにちがいない。
例年、上皇陛下と美智子さまは、軽井沢へご静養に行かれていた。今年は大日向地区の方々と交流を重ねられるのだろうか。(連載「天皇家の食卓」第8回)
文・写真/高木香織
イラスト/片塩広子
参考文献/『皇后さまと子どもたち』(宮内庁侍従職監修、毎日新聞社)、『美智子さまから眞子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(渡邉みどり著、こう書房)、宮内庁ホームページ
高木香織
たかぎ・かおり。出版社勤務を経て編集・文筆業。皇室や王室の本を多く手掛ける。書籍の編集・編集協力に『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『美智子さまから眞子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(ともにこう書房)、『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)、『美智子さま あの日あのとき』、カレンダー『永遠に伝えたい美智子さまのお心』『ローマ法王の言葉』(すべて講談社)、『美智子さま いのちの旅―未来へー』(講談社ビーシー/講談社)など。著書に『後期高齢者医療がよくわかる』(共著/リヨン社)、『ママが守る! 家庭の新型インフルエンザ対策』(講談社)。
片塩広子
かたしお・ひろこ。日本画家・イラストレーター。早稲田大学、桑沢デザイン研究所卒業。院展に3度入選。書籍のカバー画、雑誌の挿画などを数多く手掛ける。挿画に『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『美智子さまから眞子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(ともにこう書房)、『美智子さま いのちの旅―未来へー』(講談社ビーシー/講談社)ほか、著書(イラスト・文)に『私学の校舎散歩』(みくに出版)。