2023年10月20日、美智子さまは89歳のお誕生日を迎えられた。上皇陛下のお傍にあって、常に国民に心を寄せ続ける美智子さま。そのおふるまいの原点はどこにあるのだろう。人々へのお心遣いの芽は、美智子さまがご幼少のころの家庭の育てられ方にその片鱗を見ることができるように思われる。今回は、美智子さまの子どものころの、お客さまへのお茶のおもてなしの物語である。
ドイツ式育児法で厳しく育てられた美智子さま
昭和9年(1934年)10月20日、東京大学附属病院で3420グラムの元気な女の子が生まれた。美智子さまのお誕生である。日清製粉の社長であった父・正田英三郎さんと母・富美子さんのもとに生まれた長女であった。
美智子さまの母・富美子さんは明治42年(1909年)に中国の上海で生まれた。旧姓は副島といい、佐賀の士族の出身であった。富美子さんの父は、当時の三大綿花商社のひとつ「江商」の上海支店長であった。6人きょうだいの長女として生まれた富美子さんは、14歳のときに家族とともに帰国し、東京・四谷の雙葉高等女学校を首席で卒業したという。
ちょうどそのころ、正田英三郎さんの母・きぬさんが雙葉高等女学校に息子の嫁にふさわしい娘を紹介してほしいと相談したのである。学校側が紹介したのが、富美子さんであった。
昭和4年(1929年)春、英三郎さんと富美子さんは結婚。翌年から1年間、二人はドイツで暮らした。富美子さんはドイツで長男を産んでいる。4人の子どもを育てた富美子さんの基本になったのは、ドイツ滞在中に学んだドイツ式の育児法だったという。授乳時間をきちんと定めるなどとても科学的な育児法で、一人ひとりの子どもについて克明な育児日記をつけていた。美智子さまを育てた育児日記は、美智子さまが皇室に入られたときに嫁入り道具の一つとしてお持ちになり、美智子さまの子育てに活かされることになる。
美智子さまの生家は、東京・品川にある通称「池田山」と呼ばれたお屋敷町であった。美智子さまが5歳のころに第二次世界大戦が開戦し、戦火の激しいころには館林から軽井沢への疎開を経験されている。
終戦を迎え、復興を始めた東京に戻った美智子さまは、ようやく落ち着いた生活を取り戻されていた。