今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その30 誰か「ローランド」を知らないか?
男も女も憧れたアイドル・ゴルファー
流麗なスウィングは真似できないとしても、抜群のおしゃれ、あの姿は真似ることができる。そこで男たちは洋品店に走って口々に喚くのだった。
「ダグラス・ローランドみたいなシャツと、ついでに白いズボンもくれ!」
一度でも彼のゴルフを見た者は、大なり小なり影響を受けたといわれる。
イギリスのコースでは「地味」が基調とされるが、彼は白にこだわり続けただけでなく、レース飾りの袖がふくらんだビクトリア王朝風シャツに、パンタロン調の白いズボンで1番ティにやってきた。
天然ウェーブの銀髪は上品に整えられ、とてもハンサムだが温か味に溢れて、陽焼けした顔に純白の歯が印象的だった。
1930年代のイギリス・ゴルフ界はいま以上に封建色が濃く、女性のゲーム参観さえ許さないコースもあったが、エンターテイナーとしても出色だった彼、エキジビションマッチの多くは女性が入場できるコースで行われた。
もちろん彼の作戦は大当たり、「ザ・タイムズ」の記事によると、フェアウェイの貴公子をひと目見んものと、貴賤問わずの女性群がわらわら押し寄せたとある。
誰に対しても親切、かつ礼儀正しい彼は、これからどこに打つかを予告してギャラリーを楽しませたり、ときに子供たちの求めに応じて肩車をしたまま、途方もない距離のパットを沈めてみせることもあった。
スウィング理論の先駆者として評価が高いウルフ・マッキーン卿は、彼が高額の賭けゴルフにしか興味を示さないのは「道理に反する」と書いた。積極的に全英オープンなど、公式競技に出場して天才技を披露するのがゴルファーとしての義務だと嚙みついた。
しかし、ローランドはその日の賭け金にしか興味を示さなかった。
彼のゲームをつぶさに観戦したマッキーン卿は、『Golf of Genius』の文中、次のように述べている。
「ローランド君のプレーを見ていると、世の中にゴルフほどやさしいものはないように思える。彼は必要なこと以外何もしないで、自在にボールを操ってみせる。とくにドライバーとロングアイアンの飛距離と方向性の良さは、欧州屈指といえる。
スウィングは全盛時のハリー・バードンに似ているが、さらに流麗であり、スコットランドの男にしてはフィニッシュの位置が高いのである。
彼は賞金ゲームで70連勝以上のすさまじい成績をあげているが、あの破壊力から推察して、多分、死ぬまで負けないだろう」
賭け金さえ大きければ、彼は相手選ばずだった。ゴルフ好きの貴族、富豪、商店主と戦うこともあれば、プロ同士で巨額のスキンズマッチを行うこともあった。相手がアマチュアの場合、彼は惜しみなくハンディを与えた。
「それでも私が勝てるのは、彼らがプレッシャーで自滅するからだ」
澄ましたものである。とくに残り数ホールからの強さは神がかりだったと、ウィリー・パーク・ジュニアも述べている。
「グリーン近くからのアプローチは、まず5割の確率でカップに沈んだ。あの男にとって、それは5インチのパットと同じだった」
なぜ公式競技に出ないのか、ジュニアが尋ねたところ、
「ギスギスして、少しもおもしろくない。私はギャラリーと一緒に楽しむゴルフで十分だ」
そう答えたあと、呟くように言った。
「私は子連れでね。この子が知恵遅れで、とても手が掛かる」
ある晩、グラスゴーの裏町を通りかかったジュニアは、居酒屋で陽気に騒ぐローランドの姿を目撃する。寄って挨拶しようと店に近づいたとき、入口に背を向けて路肩にうずくまる10歳ほどの娘が目に止まった。たとえ子供といえどもパブは女人禁制、彼女は父親が酔いつぶれるまで、ただ座って待つしかない様子だった。彼は踵を返して立ち去った。
ゴルフは親子2人が生き残る手段
70連勝どころか、ローランドが負けたという記録はどこにも存在しない。ゴルフ界不世出の随筆家といわれるバーナード・ダーウィンは、彼に会って一編の物語を書こうと考えた。
『種の起源』で有名な進化論学者、チャールズ・ダーウィンの孫でもある彼は、ロンドンで開業していた弁護士事務所をたたんでゴルフの文筆家に転向した変わりダネ。自らも全英アマに出場した名手である。
1946年、ダーウィンは「埋没した偉大」というタイトルでエッセイを発表する。
「ローランドは、リンプスフィールドの町に住んでいたことがある。結婚して間もないころ、途方もない長さで知られるウォーリントンの3番ホール、パー5の第2打目にブラッシーを持ち出すと、アゲンストの中、豪打を放ってピン1ヤードのミラクル、まさかの3でホールアウトしてみせた。この出来事はいまも伝説として残る」
「彼は稀なるシャレ者だった。ある日のエキジビションマッチでは、友人の結婚披露宴からタキシード姿で駆けつけると、上衣だけ脱いで、ノリのきいたシャツを手でもみくしゃにして微笑するなり、借り物のクラブでゲームを始めた。しかも信じられないことに、彼は従来のコースレコードを破ってみせたのである」
ダーウィンは、各地に残る断片的なエピソードを丹念に集めて紹介する。大流行した悪性感冒の犠牲となった愛妻、彼の自殺未遂、残された娘もまた感冒の後遺症に苦しみ、知的障害を背負うことになる。
その子がいじめられるたび、彼は転々と住居を変える。イングランドの南端、ライにいたかと思うと、スコットランドのインバーネスに住んでいたこともある。
「彼のゴルフは、親子2人が生き延びるための手段であり、あまねく名医を訪れるに必要な膨大な費用の稼ぎ場所でもあった。名誉は満腹にならない、と語った彼は正直な男である」
ゴルフの技は冴える一方だった。金持ち同士が「代打ち」を雇って大金を賭ける「エディンバラ・マッチ」では4日間とも首位にとどまって、2位に17打の大差をつけてみせた。
第二次大戦が終わって間もなく、ダーウィンは案内する人があってローランドの住む狭い部屋を訪れる。それほど老ける年齢でもないのに、彼はリューマチの苦痛に呻吟していた。
「ゴルフは?」
「クラブが持てない。どこかで痛み止めを手に入れてくれないか」
「約束しよう」
それから、思い切って尋ねてみた。
「娘さんは元気かね?」
質問には答えず、いくつかの有名なコースの名を挙げて、空襲の被害がなかったかどうか、しきりに心配する様子だった。それ以上、もうダーウィンには聞くこともなく、ポケットにあった有り金のすべてをテーブルの上にそっと置いて帰りかけたとき、彼が嗄れ声で呟いた。
「娘は、天国の母親のところに行ってしまった。1941年の夏のことだ」
暗い部屋の片隅には、パターが1本立て掛けてあった。痛む手をだまして身構えることもあるのだろうか。
それでもパターがあっただけで理由もなく安堵したダーウィンは、一礼して部屋をあとにする。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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