昭和53年、41歳の時に大安食堂を創業
創業者は遠藤進(えんどう・すすむ)さん。昭和12年8月5日、6人姉弟の3番目として福島県喜多方市に生まれました。大安食堂が創業したのは昭和53年10月12日、遠藤進さんが41歳の時でした。
遠藤さんは大安食堂を創業するまで、当時地場産業のひとつであった繊維関連の仕事に長年携われていました。遠藤さんはお兄さんが営んでいたメリヤス関連の仕事からスタートし、20歳で上京。当時、目黒にあったレナウンの工場でさらなる技術を習得し、喜多方に戻りました。
そして昭和31年、昭子さんと結婚。昭子さんの実家は、喜多方で製麺業を営む朝日屋食品。朝日屋食品は、喜多方で現存する最古の製麺店で、初めて機械打ちの製麺を始めた蓮沼製麺の親戚で、昭子さんはラーメンに関して精通していました。
昭和40年代に入ると、大企業が会津エリアに繊維工場を建設。地場の繊維工場と比べ破格の高い賃金を払い、多くの雇用が大企業へと流失。地場の中小企業は立ち回らなくなりました。
そんな状況もあり、遠藤さんは繊維業に見切りをつけ、昭子さんが製麺店の娘さんということもあり、昭和53年に大安食堂をオープンしました。
遠藤さん曰く「当時喜多方ではラーメンの専門店はごくわずかで、ほとんどのお店が食堂スタイルでした」とのこと。最初はカツ丼やカレー、うどんや日本蕎麦に至るまで様々なメニュー構成だったようです。
喜多方ラーメンのルーツは「源来軒」
ここで喜多方ラーメンの歴史について簡単に触れさせていただきます。喜多方ラーメンのルーツは、現在も現存する「源来軒」に遡ります。
創業者の藩欽星(ばんきんせい)さんは、先に日本に渡っていた叔父を頼って昭和2年に中国から入国しております。
「源来軒」の前に「震来軒」というお店や、「上海軒(現在、喜多方にある「上海」とは別)」があったという説もありますが、「源来軒」が喜多方のラーメンの発展に大きく寄与されたことは間違いありません。
一説によると、藩欽星さんがラーメン作りを教えたお弟子さんは100人を超えるとのことです。
また藩欽星さんは、中国浙江省出身の方で、この場所から多くの有名ラーメン店が誕生しています。京都「新福菜館」、新潟・燕「福来亭(杭州飯店)」、王貞治さんのお父さんのお店「五十番」(東京)は、全て中国浙江省出身の方々です。
そして戦後になると、「まこと食堂」、「上海」、上海で修業し独立した「坂内食堂」が中心となり、喜多方ラーメンは発展していきます。
戦前から昭和40年代の喜多方は、今のようにラーメンが観光資源だったわけではありませんが、地元では出前も含め古くから根付いていた食文化でした。前述通り、喜多方は食堂文化としてラーメンを中心に、かつ丼やカレー、うどんや蕎麦、チャーハンに至るまで多種多様なメニュー構成でした。そのため老舗のお店は「○○食堂」という屋号が多いのが特徴です。