NHKの番組がきっかけで大繁盛
大安食堂は昭和53年の創業時から地元のお客さんで賑わっていました。色々なメニューを出していたものの、ラーメンは自信の一品であり、人気のメニューでした。そんなある日、創業から3年ほど経った頃、NHK仙台の「東北めん類考」という番組の取材が入りました。レポーターは当時、全国ラーメン党会長の林家木久蔵さん(現在は木久翁さん)。
その時のエピソードが、昭和57年の新聞記事に紹介されています。記事によると、「大安食堂」のラーメンを食べた木久扇さんは何度も「おいしい」と言って、「ラーメンは人類を救う」と書いた色紙を遠藤さんに贈ったそうです。
この番組をきっかけに、大安食堂は大繁盛しました。
そして、翌年の昭和58年には、喜多方が日本三大ご当地ラーメンとして知られるきっかけが生まれます。
喜多方ラーメンの一大ブーム
喜多方はラーメンが観光資源になる前「蔵のまち」として脚光を浴びました。
「蔵のまち喜多方老麺会」のHPによると、昭和40年代後半、地元の写真館が開いた写真展がきっかけでした。喜多方の蔵の風景などを撮影した数多くの写真が展示され、東京などにも巡回。この写真展を知ったNHK福島放送局のディレクターが喜多方の蔵に注目した番組を制作して福島県内で放送するとともに、2年後の昭和50年には人気番組「新日本紀行」でも“蔵のまち喜多方”を取り上げたのです。番組の影響は大きく、多くの観光客が訪れるようになりました。
ではどのようにして喜多方がラーメン処として観光資源になったのか。
同じく「蔵のまち喜多方老麺会」のHPによると、背景には、喜多方市の職員による努力がありました。昭和58年、人気雑誌を通じて観光キャンペーンを展開する中で、少しでも観光客の滞在時間を長くしたいと、喜多方ラーメンの紹介を思いついたそうです。見事に狙いは当たり、市には問い合わせが相次ぎます。年間の観光客数も、昭和50年には5万人でしたが、昭和58年にはその4倍にもなりました。
このように、喜多方ラーメンが観光資源になった理由は、もともと根付いていた食文化に着目し、当時、喜多方市役所商工観光課の職員であった富山昭次さんが尽力されたことが大きな要因でした。
喜多方が「日本三大ご当地ラーメン」になった理由
新横浜ラーメン博物館の展示コーナーにも当時、喜多方ラーメンが話題になった記事(オール生活/実業之日本社/昭和63年4月発行)を掲載しております。
記事のタイトルには「とうとうラーメンツアー列車も運行。大人気 喜多方老麺は地域おこしの横綱格」と書かれており、次のような説明がありました。
「いまやラーメンツアーの特別列車は走るわ、大型の観光バスが小さな店の前に乗りつけるわの大盛況である。ラーメン店も60軒前後だったのが、ここ1年で100軒を超えるまで増えた」
その前年の昭和62年3月には蔵のまち喜多方老麺会が日本で最初のラーメン会として発足しました。大安食堂の遠藤さんによると、遠藤さんは初代のメンバーとして名を連ね、自分のお店のみならず、喜多方ラーメンを全国区にすべく、北は北海道、南は九州まで、全国の物産展に出店したとのことです。
こうして喜多方ラーメンは日本三大ご当地ラーメンとして名を馳せることとなりました。