新横浜ラーメン博物館への出店
私たちが大安食堂さんにお邪魔したのは1992年頃。日本三大ご当地ラーメンとして喜多方というラインナップは外せないという想いのもと、誘致活動をしました。しかし前述通り、当時の喜多方は多くの観光客で賑わっておりました。私たちが大安食堂にはじめてお伺いした時、遠藤さんは物産展に出ており不在で、奥様にご挨拶したところから始まりました。
当時のことを遠藤さんに伺ったところ「あの頃はとにかく忙しく、私は喜多方ラーメンの発展のために月の半分は物産展の仕事をしておりました。妻からラーメン博物館の話を聞きましたが、これは間違いなく詐欺だと思いました。それには理由がありまして、当時喜多方のラーメン店はどこも繁盛していたこともあり、ラーメン店に先物取引などの儲け話をもってくる詐欺師が多く来ていました。私はこれは新しい詐欺だと思い、すぐに断るよう妻に指示しました」とのこと。
当時誘致をしていた岩岡曰く「私たちは諦めず、喜多方に何度も通いました。ある時、遠藤さんが横浜の物産展に出店するという話を聞き、その時は毎日のように通いました。私が怪しいものでないことをわかっていただくために、私の姉が女優であったため、姉にも会っていただきましたし、遠藤さんは私より20歳以上年上でしたので、父にも会っていただきました」
遠藤さんは「また来たのか、内心はしつこい人たちだなと思いましたが、何度も来てくれますし、詐欺師ではないということはわかったので、徐々に出店したいという気持ちに変わっていきました。ただ、ラーメンを食べるのに入場料もかかるし、正直お客さんもそれほど来ないと思っておりましたが、内装や厨房機器などのイニシャルコストがかからないということもあり、ダメだったらすぐ辞めればよいという腹づもりで出店を決めました。まさかあんなにお客さんが来るとは夢にも思いませんでした」とのこと。
喜多方に帰れないほどの繁盛
「私は喜多方で妻と二人でやっていましたので、ラー博出店時は喜多方の店を休み二人で横浜に行きました。当初の予定では1カ月で体制を作り、喜多方に戻る予定でした。しかしオープンすると、毎日600杯~800杯のラーメンが出るため、夜2時頃まで仕込みをして、ふらふらになりながら住まいに戻り、2~3時間の睡眠をとり、また朝6時に店に戻る。そんな日々がずっと続きました」(遠藤さん)
「娘にも手伝ってもらい、横浜でスタッフも雇ったのですが、それでも体制が作れず、ようやく妻が喜多方に戻れたのは半年後でした。喜多方からは“いつ戻って来るんだ!このままだとお店が閉店したと思われるよ”という連絡も来ておりました。私のラーメン人生の中でこんなに忙しかったのは初めてでした。ただこの経験があったからこそ、自信にもなりました」(遠藤さん)