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羽柴秀吉から「奥羽惣無事令」

天正10(1582)年、本能寺の変の年。晴政が死ぬと実子の晴継が第25代の当主になりましたが、すぐに暗殺されてしまいます。信直にも疑いの目が向き、第26代の当主を巡って九戸当主の九戸政実の弟、実親との争いになりますが、信直が支持を多く集め、第26代当主の座を勝ち得ました。

その後羽柴秀吉から「奥羽惣無事令」が出されると、いち早く豊臣政権に臣従する姿勢を見せました。このあたりは、時代の流れを見る目があったということでしょう。これが後々南部家と信直を助けます。

盛岡城跡公園  photo 34@Adobe Stock

南部氏に訪れた最大の危機

南部氏に最大の危機が訪れるのは、天正19(1591)年、九戸政実(くのへまさざね)の乱です。南部信直が天正18(1590)年に小田原征伐と、続く大崎氏や葛西氏らを滅ぼした奥州仕置に従軍していた隙に、九戸政実は三戸南部側の南盛義を討つなどして、反三戸南部氏ののろしをあげたのです。九戸政実は弟の九戸晴政が当主になれなかったことに遺恨を持っていました。また、秀吉によって三戸南部家が宗主とされ、一族は従うことを求められたことにも反発したのです。

九戸政実は5000の兵で挙兵、これに呼応して一揆が発生し、三戸南部氏側は大ピンチに陥ります。これに対して、秀吉は奥州再仕置きを命じます。甥の豊臣秀次を総大将に、徳川家康も加わった6万の大軍を差し向けました。九戸政実は九戸城に立てこもりますが多勢に無勢で、開城すれば全員助命するという豊臣側の申し出を信じ降伏。しかしその約束は反故となり、女を含め城内の者たちは皆殺しにされたといわれています。

これで南部信直はひとまず安泰となりましたが、父を自害に追い込み、津軽の地を奪った大浦為信への恨みは消えません。秀吉に仇討の許可を訴えました。

しかし、すでに仕置きは済んだとして、秀吉はこれを拒否。代わりの領地を与えられました。結局、南部の地であった津軽は大浦為信の政治工作が功を奏して、津軽氏としての独立が認められたのです。津軽氏が開いたのが弘前藩。居城は桜で有名な弘前城です。

盛岡城跡公園 photo 34@Adobe Stock
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“犬猿の仲”の南部藩と津軽藩...
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松平定知
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