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「教えてほしいなら100万円を持ってきなさい」

しかし、バーは経営しているものの、ラーメンに関しては未経験。そこで「AFTER THE RAIN」のお客さんにラーメン店の息子さんがいたので、河原さんは「親父を紹介してくれ、無給で良いから働かせてくれ!」と頼んだのです。いざそのラーメン店(「長浜一番」)にお願いに行くと「技術を教えてほしいなら100万持ってきなさい」と言われ、河原さんはびっくりしながらも100万円を払い、修業を開始しました。

夜は「AFTER THE RAIN」をやりながら1年間修業をし、時間が少しでもできたときは全国の有名店を食べ歩き、研究を重ねました。

そして目標としていた33歳の1985年10月16日、博多「一風堂」を大名に創業します。

大名本店の前に立つ河原さん(1986年撮影)

一風堂=「ラーメン界に一陣の風を吹かせたい!」

店名の由来は「ラーメン界に一陣の風を吹かせたい!」という想いと、当時好きだったバンドの「一風堂」から名づけたとのことです。

お店は10坪程度の広さで、最初は思ったよりもお客さんは少なかったものの、女性客が気軽に入れるという今までにないおしゃれなお店だったこともあり、口コミで徐々にお客さんは増え、1年後には1日200人のお客さんが訪れる繁盛店となりました。

大名本店時代の店内(1986年撮影)

しかし、一風堂は順調に利益を出していたものの、その後ロードサイド型のラーメン店「爽風亭(1988年)」や居酒屋などを展開したものの思うように利益が出ず、資金的にも厳しくなってきました。そんな中、新横浜ラーメン博物館への出店の話が舞い込んできたのです。

何故「一風堂」だったのか?「革新的な味に惹かれた.」

当時、博多のラーメンシーンは「赤のれん」、「ふくちゃんラーメン」、「しばらく」、「八ちゃんラーメン」など、新旧の勢いがあるお店がしのぎを削っていました。その中で何故、博多の代表として「一風堂」に声をかけたのか?

誘致をしたラー博創業者の岩岡洋志に聞いてみると、「もちろん当時勢いのあったお店も誘致候補としてお声がけもしていました。ただ一風堂を食べた時に、他の店舗と違い、マイルドで独特の臭みがない革新的な味に惹かれました」とのこと。

そして「当時河原さんにどうしてこういうラーメンを作ったのですか?と聞いたところ“俺は女性にも喜んでもらえる臭みのないポタージュのようなスープを作りたいんだ”と目を輝かせて語ってくれました」

ラー博オープン前、岩岡館長にスープの作り方を説明する河原さん(1993年撮影)

「そうした経緯の中で、一風堂にお声がけをさせていただくこととなりました」

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「こんな場所にお客さんが来るわけがない!」...
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おとなの週末Web編集部
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