「こんな場所にお客さんが来るわけがない!」
河原さん曰く「はじめて岩岡さんが来た時に、彼はお土産として“ひよ子”を持ってきたのです。“ひよ子”は九州の銘菓ですので、その辺で買ってきてうちに来たんだと思い、岩岡さんが帰った後、“あいつは詐欺師だ!”と思い、店の外に塩をまきました。ただ“東京ひよ子”という同じ会社の銘菓が東京にもあることを後に知りました(笑)」
「余談はさておき、その後も岩岡さんは何度も訪ねてきてくれました。ただ当時うちも、東京進出するような状態ではなかったですし、今のように物流も発達していなかったので、そんな大きな賭けに出るのはリスクが高いと思っていました。しかし何度も来てくれるので、その熱意や夢は熱いものを感じました。そのため、乗り気ではなかったですが、現場だけは見ようと新横浜を訪れました。結果的にこれが人生で一番の転機になりました」
河原さんが新横浜ラーメン博物館の建設現場を訪れたのは1993年の6月、河原さんが40歳のときでした。小雨の降る夕方、駅を降りて建設現場まで歩く中、空き地だらけで、人がほとんど歩いておらず、「こんな場所にお客さんが来るわけがない!すぐに断ろう」と瞬時に思ったそうです。
店舗予定地は約11坪、岩岡さんは「月商1000万は行くと思います」と言ったのですが、心の中で「馬鹿言ってんじゃないよ!こんな場所で1000万も売れるわけないだろう!」と呆れました。
設立準備室で見た“まぶしい光景”
「現場の帰りに岩岡さんが“設立準備室に寄ってください”というので、しぶしぶ立ち寄ったのですが、その扉を開けた瞬間、断るはずだった意思をひっくり返される出来事があったのです」
「そこには僕が忘れていた熱気がみなぎっており、若いスタッフが夢に向かってイキイキとしている光景がありました。そこには6人くらいの若いスタッフがいて、ある者は電話をかけ、一方では声高に議論をしていて、壁には全国のラーメンの記事が貼られ、“オープンまで150日”、“勝ち抜くぞ!”といった大書した紙が貼られていました」
「みんな目がキラキラしていて、あの光景はあまりにもまぶしく、立地なんて関係ない、このスタッフたちと一緒に働きたいと思ったのです。もし準備室に立ち寄らなかったら今の一風堂はなかったのかもしれません」とのこと。こうして、河原さんは若いラー博のスタッフの熱意に賭け、出店を決断したのです。