「東洋一の可動橋」と呼ばれた勝鬨橋 その名前の由来とは?

勝鬨橋中央の跳開橋を支える左右2か所の橋脚は、内部が空洞になっており、見学することができる=2017年10月24日(チャーター船より撮影)

東京の隅田川(全長約24km)には、人が渡れる橋が27もある。上流側から数えて26番目が「勝鬨橋(かちどきばし)」である。“もんじゃ焼き”で有名な「月島」と、“場外市場”のある「築地」とを結ぶこの橋は、行き交う大型船舶の航行に合わせて橋の中央部が「ハ」の字に跳ね上がるのが特徴だった。現在では、二度と開閉することのない「幻の跳開橋(ちょうかいきょう)」。この悲運の橋に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

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東京の隅田川(全長約24km)には、人が渡れる橋が27もある。上流側から数えて26番目が「勝鬨橋(かちどきばし)」である。“もんじゃ焼き”で有名な「月島」が近い「勝どき」と、“場外市場”のある「築地」とを結ぶこの橋は、行き交う大型船舶の航行に合わせて橋の中央部が「ハ」の字に跳ね上がるのが特徴だった。現在では、二度と開閉することのない「幻の跳開橋(ちょうかいきょう)」。この悲運の橋に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

月島は埋め立てできた「人工島」

今でこそ、タワーマンションが立ち並び東京有数の住宅地となっている月島一帯であるが、1894(明治27)年以前には存在しない土地であった。なぜならば、埋め立てでできた人工島だからだ。当時はまだ東京に港はなく、隅田川の河口も越中島のあたりにあった。東京湾はもともと遠浅の地形であったため、水深も浅く、大型船舶の航行には不向きであった。

このため、1892(明治25)年から東京湾澪浚(みおさらい=水深を確保するために海底の土砂をさらう)工事が始まり、その際に発生した土砂を埋め立ててできた人工島が「月島」となった。この島は正式には「月島1号地」と呼ばれた。1896(明治29)年には、水上交通として「月島の渡し」が開設され、対岸の築地との間を「渡し舟」が行き来するようになった。

その後も、現在の都営大江戸線勝どき駅のある辺りとなる「月島2号地」が完成し、この時、築地側にあった旧京橋区(現在の築地1丁目など)の住民有志によって「勝鬨の渡し」が1905(明治38)年に開設されるに至った。

かちどき橋の資料館前の晴海通りに設置されている「かちときのわたし」の碑。1905年から1940年の勝鬨橋開通までの35年間にわたり、築地と月島の地を結んでいた「勝鬨の渡し」。渡船の年間利用者は一千万人もおり、当時の東京市が年額15万円を投じて無償運航していた=2024年4月4日、築地6丁目20番地先

日露戦争に勝利した年に「勝鬨の渡し」が開設

一般的に橋の名は、その土地の名を冠することが多い。橋の名の語源となった「勝鬨の渡し」が開設された1905年は、日露戦争に勝利した年でもあった。「かちどき」とは、その時の歓声「勝鬨の声をあげる」という表現から引用したものだといわれている。現在も受け継がれる「勝どき」の地名も、この由来に起因する。

ちなみに、勝鬨橋の「鬨」の文字は当用漢字や常用漢字に含まれていないため、駅名や地名には平仮名が用いられ、「勝どき」としている。

隅田川の月島側下流川面から築地側を見たところ。「ハ」の字に跳ね上がる跳開橋を支える左右2つの橋脚は、内部が空洞になっており、跳ね上がった橋の裾部分が収まる構造になっている。写真の左手(陸地)には築地場外市場が広がる=2017年10月24日(チャーター船より撮影)

最初の計画は明治時代

「可動橋」として橋を建設する計画は、1911(明治44)年にまで遡る。埋め立て当時の月島は工業用地とされており、運河(この時点では未だ隅田川の河口は上流にあった)に面した土地には造船所をはじめ多くの工場や倉庫が建設された。このため、物資輸送や新造船の航行など大型船舶の需要が見込まれることから、その航行が可能な可動橋が選定されたのであった。この橋の全橋長は約218m、可動橋長は約65mであった。この時の架橋位置は、現在の位置よりも上流側として計画されていたという。

しかし、1915(大正4)年になると欧州大戦(第一次世界大戦)による鉄価高騰のあおりを受け、この第一次計画は見送られ、実現には至らなかった。

第一次計画案に添えられたパース画。月島は工業用地として埋め立てられたこともあり、明治期の計画段階から大型船舶の航行を意識した「跳開橋」として設計が行われた

第二次計画は昇開橋

1919(大正8)年になると再び建設計画が起案され、架橋位置は現在地へと見直され、橋の構造は同じく中央部を可動橋であったが、その種類は「昇開橋(リフト式)」に改められた。この計画もまた、財政難等を理由に見送られた。

図中に”架橋位置”を示す「第一次計画位置」、「決定位置」の文字が見て取れる。この地図には「都電月島線(1923年開通)」が描かれていることや、現在の晴海通りにあたる震災復興道路(幹線第四号/当初は「歌舞伎通り」と呼んだ)も記載されていることから1925(大正14)年以降の既製地図に書き加えられたものと推測する。「決定位置」の築地側が道路と接続していないが、単純な記載ミスであろう

帝都復興のシンボルにはなれなかった

1923(大正12)年に発生した関東大震災による被害は、甚大なものとなった。その復興事業は、政府主導で行われることになった。当初は、大胆かつ大規模な復興計画が諮られた。だが、当時の経済状況を鑑みた結果、計画規模は大幅に縮小された。さらには、東京市中の川に架かっていた既存の橋が甚大な損傷を受けていたこともあり、新しい橋の建造どころではなかった。

このため、修復作業に全力が注がれることになった。当時、帝都復興事業の中では、現在の晴海通りにあたる築地本願寺より月島に至る27m幅の道路が建設されているが、この延長線上に架かる橋、のちの勝鬨橋については議論するまでもなく見送られた。

エレベータを備えた跳開橋!?

1930(昭和5)年には、3回目となる計画だけに終わった建造案だけが残されている。「帝都の復興に美観を添える」。そんなキャッチコピーのとおり、帝都東京に相応しいデザインが描かれていた。構造は、これまでの計画と同様に中央部が可動橋になっており、全橋長346m、中央の可動橋長は36mのバスキュールブリッジ(跳開橋)となっていた。

その開閉と大型船舶の航行には、約6分もの陸路遮断が見込まれた。このため、可動橋の川底部に橋と並行して自動車と歩行者用の地下道(河底隧道=かわぞこずいどう)が計画された。地下道へのアクセスは、橋の橋脚内にエレベータを備えるという非常に大胆な計画であった。残念ながら、この計画は机上論だけに終わった。

工事費850万円(現在の貨幣価値で45億円規模)を見込んで計画された第三次計画案。河底隧道や自動車用エレベータを設置するなど、実現していたらと思うとワクワクするような橋だった
橋と並行するように河底に隧道(トンネル)を設置し、跳開中の6分間でも「人と自動車の通行を妨げない」という大胆な発想で計画されていた

4度目の正直、7年を費やした工事

1929(昭和4)年になると、東京港修築計画が持ち上がり、交通需要がひっ迫していた勝鬨と月島を結ぶ渡し舟の代替策として、ようやく架橋の計画が4度目にして1930年12月の東京市会で可決決定した。時を同じくして、1940(昭和15)年に「皇紀2600年」を記念した「日本万国博覧会」が月島で開催されることが決定しており、会場へのアクセス道路の構築という後押しがあったことも、その一因といえよう。

検討段階においては、大型船舶をクリアできる高架橋にする案や、橋ではなく河底隧道(地下トンネル)にすることも議論されたが、費用が増大することから当初から計画にあった「可動橋」が採用された。建造にあたっては。日本の高い技術力を世界に知らしめられるような立派な橋が求められた。そのため、外国人技師に委ねることなく、そのすべては日本人技術者によって設計から施工まで行われた。工事は1933(昭和8)年6月10日から7年もの歳月を費やした。その間には、日中戦争の激化により当の博覧会は中止に追い込まれるも、勝鬨橋の建造だけは継続された。

現在架かる橋の基本設計図。この段階では、跳開橋を支える橋脚に設置された塔屋部分は3階建てとして描かれているが、実際には建設されていない。時局は日中戦争の最中であり、計画を変更したものと推測する。図面上の作図年が「昭和44年」となっているのは、おそらく過去の図面をトレースして再作図したためだろう

1940年6月14日に完成、1回の跳開時間は20分

1940(同15)年6月14日に勝鬨橋は完成し、当時は「東洋一の可動橋」と評判を呼んだ。橋の建造は分業で行われ、月島側アーチ橋は石川島造船所、築地側アーチ橋は横河橋梁製作所、可動(跳開)橋は神戸川崎車輌が担当した。当初、可動橋の開閉回数は1日5回とされ、1回の跳開時間は20分であった。

橋脚の塔屋に設けられた運転室の内部=2024年4月4日、中央区

開閉操作は、跳開橋を囲むように橋の4つの主塔部分の塔屋には運転室、見張室、宿直室が設けてあり、開閉操作はこの運転室から行われていた。跳開時には警報サイレンが鳴り、自動車と船舶それぞれに向けて信号器により停止、進行の指示をしていた。

橋脚部にある塔屋に設置された船舶用灯火信号器。この信号器は、行き来する大型船に対して、言わば通航許可を出していた=2024年4月4日

開閉角度は最大70度、全開まで約70秒

跳開橋の開閉角度は最大70度で、全開するには約70秒を要した。跳開橋は片側だけを操作することや、跳開角度も通航する船舶の大きさによって調整ができる構造になっていた。橋を通行する車両荷重には、40t未満という制限がある。開閉部は容易に動かないように、電動式ロックピンにより固定され、現在もこのロックピンによって橋は固定状態にある。

勝鬨橋の半開状態を橋の上部から撮影した貴重な写真(上流側を望む)

跳開にする橋本体は片側だけで900トンもの重量があり、効率よく開閉操作するため可動部には1100トンもの重量の“カウンターウェイト”を設置して、開閉時の橋本体にかかる重量をバランスよく分散させていた。

右上の大きな緑色に塗られた部分がカウンターウェイト。橋が跳ね上がる(開く)と、カウンターウェイトは左下のストッパーまで降りてくる。写真左手の壁の向こうが跳開橋に位置する。橋脚内見学ツアーの一コマより=2024年4月4日
モーターの力で歯車を回転させて、跳開橋を開閉していた=2024年4月4日

橋上を都電が通行していた時期もあったが、橋の完成時点では橋を通る路線そのものが存在していなかった。しかし、将来を見越してレールなどは建造時から橋上に取り付けられており、まさに先見の明なのである。

1947(昭和22)年から1968(昭和43)年2月までの間、都電11系統(新宿駅前~月島通八丁目)が橋上を行き来していた
築地と月島通八丁目の間に「勝鬨橋」の文字が見て取れる=1950(昭和25)年の都電路線図より

1970年11月29日が最後

1953(昭和28)年を過ぎると大型船舶の通航量が減少したことで、橋の跳開回数も減少していった。1964(昭和39)年以降になると、跳開の回数も年100回を下回るようになり、船舶に対する跳開は1967(昭和42)年が最後となった。それ以後は、年に一度の検査時に跳開するだけとなり、それさえも交通量の増加を理由に1970(昭和45)年11月29日を最後に取り止めた。以降、電気は通電状態にあったものの、1980(昭和55)年に電気の送電も停止され、二度と可動させることはできなくなった。

運転室から見た跳開橋=2024年4月4日

橋梁内部は見学可能、毎週木曜に「勝どき橋 橋脚内見学ツアー」

勝鬨橋の築地側のたもとには、橋用の変電所を再活用して開設した「かちどき 橋の資料館」がある。ここには、勝鬨橋の模型やパネルや実物の電気設備などの展示が常設されており、誰もが気軽に利用できる(休館日:日、月、水)。なかでも、毎週木曜日には「勝どき橋 橋脚内見学ツアー(事前申し込み、抽選制、参加費無料)」が午前と午後に2回実施があり、橋の歴史や構造、機械設備などの解説とともに橋脚内部を案内してくれる。

見学は1回約90分で、各回10名限定、もちろん参加費は無料。詳細や申込み方法は「橋脚内見学ツアー」で検索し、応募もWEB上からできる。小学生(身長110cm)以上が対象で、一部の場所では落下防止のため安全装置を体に装着する必要があり、体重制限もある。詳しくは、東京都道路整備保全公社「かちどき 橋の資料館」情報ページへ。

橋の西詰(築地側)の袂にある「かちどき 橋の資料館」。入館料が無料なのはうれしい=2024年4月4日
橋脚内部を見下ろす。この内部の床は、隅田川の水面よりも低い位置にある=2024年4月4日
「橋脚内見学ツアー」では、跳開橋の動く仕組みを実物を見ながらイラストを使って丁寧に説明してくれる=2024年4月4日
橋脚内部にあった当時の職員が使用していたトイレ。今では考えられないが、この汚水はそのまま隅田川へと流れ出る“水洗トイレ”だった=2024年4月4日

工事費は418万円、現在では22億円以上

架橋位置は東京都中央区に位置し、隅田川を挟んだ築地6丁目と勝どき1丁目に架かる都道304号、通称「晴海通り」の橋である。その構造は、国内唯一の「シカゴ型双葉跳開橋(そうようちょうかいきょう)」であり、その構造は大きく3つに分けられる。中央にある可動(開閉)部と、その左右両側にある固定部をソリッドリブタイドアーチ橋と呼ぶ。全橋長は246m、有効幅員は22mで、中央可動部の径間長は44mもある。

橋格は「一等橋」を誇る。工事費は当時の価格で418万円、現在の貨幣価値に換算すればおおよそ22億3千万円くらいにはなろうか。2014年、さらに下流に架かる「築地大橋」が完成するまでは、隅田川として一番下流の橋であった。2007年6月に「日本国重要文化財」に指定されたほか、2017年には跳開部の機械設備が「機械遺産(日本機械学会)」として認定された。

橋の西詰(築地側の袂)に設置されている「日本国重要文化財」の銘板。当時の石原慎太郎東京都知事の揮毫が目を引く=2024年4月4日

近年、再び可動部を跳開させようと一部の市民団体や都議などによる働きかけがあったものの、実現には至っていない。バブル期の1990年には、世界都市博覧会の目玉企画として跳開が計画されたが、都市博そのものが中止となり、立ち消えとなった。動かすための修復費用は、東京都の試算では10億円ともいわれる。是が非でも跳開する姿を見てみたいものである。

文・写真/工藤直通

資料提供/「かちどき 橋の資料館」、参考文献/「土木建築工事画報」(昭和5年2月号)、「土木工学」(第4巻 第7号 昭和10年7月)

くどう・なおみち 日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員

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