皇室のヒミツ、皇族の素顔

”神様を乗せる”鉄道車両はなぜ誕生したのか 「賢所乗御車」とは

“神様を乗せる鉄道車両”と呼ばれた「賢所乗御車」の外観。車体中央にある二枚折りの観音開き戸が、”神様の乗降ドア”。その合わせ目には、菊華御紋章が取り付けられている=写真/宮内公文書館蔵

伊勢神宮の内宮には、”皇室の祖神”とされる「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」がまつられているという。その”御神体”とされるのは「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるもので、これまで一度も公開されたことがないと伝えられる。皇居の中にも、この御神体と縁がある場所として「宮中三殿」と呼ばれる御社(おやしろ)がある。その三殿のひとつ「賢所(かしこどころ)」に、八咫鏡の形代(かたしろ)という、いわば”御神体のレプリカ”がまつられている。この形代を運ぶための鉄道車両が、かつて存在した。世界にもおそらくは類のない“神様を乗せる鉄道車両”は、なぜ誕生したのか。その真相に迫ってみたいと思う。

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伊勢神宮の内宮には、”皇室の祖神”とされる「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」がまつられている。その”御神体”とされるのは「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるもので、これまで一度も公開されたことがないと伝えられる。皇居の中にも、この御神体と縁がある場所として「宮中三殿」と呼ばれる御社(おやしろ)がある。その三殿のひとつ「賢所(かしこどころ)」に、八咫鏡の形代(かたしろ)という、いわば”御神体のレプリカ”がまつられている。この形代を運ぶための鉄道車両が、かつて存在した。世界にもおそらくは類のない“神様を乗せる鉄道車両”は、なぜ誕生したのか。その真相に迫ってみたいと思う。

明治奠都と重要儀式

明治天皇は、居所を1868(明治元)年10月に京都御所(京都市)から江戸城(東京都)へと奠都した。このとき、京都御所の賢所に奉安(ほうあん)していた”御神体”=賢所(かしこどころ)も、天皇と一緒に江戸へ上った。もちろん鉄道のない時代だったので、「御羽車(おはぐるま)」とう“輿(こし)”に乗せてお運びした、と記録されている。この移動を宮中用語では「御動座(ごどうざ)」という。東京奠都(てんと、都と定めること)によって皇室の重要儀式も、当時は宮城(きゅうじょう)と呼ばれた皇居で行うようになった。

しかし、皇室の最高儀礼である「即位の礼」に際してはどうするか、という議論になった。それまでは、当時の皇室に関する儀式や手続きを規定していた「登極令(とうきょくれい)」によって、「新天皇は神器を奉じ皇后とともに京都の皇宮(こうぐう)に移る」と定められていたため、このしきたりによって大正の即位の礼は東京の宮城(皇居)ではなく、皇宮、すなわち京都御所で行われることになった。

明治奠都の徒歩行列を描いた錦絵、京橋(東京都中央区)を渡る行幸の図。中央に描かれる「輿」に賢所の御神体を奉安し、左端の輿には明治天皇が乗られた=図/東京都立中央図書館蔵
“御羽車(おはぐるま)”と呼ばれる「輿」。に乗せて、賢所の御神体は運ばれる。神社の祭礼で使用される御神輿(おみこし)は、これがルーツともされる=写真/宮内公文書館

どのようにしてお運びする?

明治の時代が終わりを告げ、大正の即位の礼が1915(大正4)年11月に京都御所で行われた。その際、御神体を移動させる“御動座(ごどうざ)”をどうするか、という問題が発生した。先述のとおり東京奠都の際には「輿」が使われたが、この時代には東京と京都の間には鉄道が開業していたため、当然ながら御動座には鉄道を利用することになった。

長い歴史のなかで“鉄道で神様を運ぶこと”は、これまでにないことであり、宮内省は頭を悩ませたという。御神体は形代とはいえ神様とされる以上、貨車に乗せるわけにはいかない。天皇と同じ御料車に乗せるのも、天皇よりも上位とされる神様であることを考えるとはばかられる。こうした議論を積み重ねた結果、”神様を乗せる専用車両”を造ることになった。それが、「賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)」だった。

御神体の形代を鉄道車両に乗せる場面を描いた「移御(いぎょ)の図」=図/宮内公文書館蔵

車両のデザイン

「神様をお乗せするにふさわしい車両にしよう……」。当時の鉄道省の設計担当者らは、希望と不安にさいなまれながら試行錯誤を繰り返したという。車体の外観は、皇室の品位と神事に失礼のないデザインとし、内装は神殿造りを模したものとなった。車体は、当時の一般車両と同様に木造で、塗粧は漆塗り。内装は総ヒノキ造りで、神様の乗降扉は二枚折りの観音開き戸とし、扉の合わせ目には菊の御紋章を取りつけた。

車内の室割は、掌典室(掌典とは男性神職、現在では天皇の私的使用人)が3室、中央に賢所奉安室、内掌典室(内掌典とは天照大御神にお仕えする未婚女性神職)、トイレ付き内掌典室、掌典室と配置された。

現代では政教分離の原則があるため、”神様が乗る車両”の製作は考えられないが、当時は「天皇=現人神(あらひとがみ)」とされた時代ゆえ、国費を投じて製作することとなった。記録によれば、その費用は当時の価格で2万2299円。現在の貨幣価値なら約2400万円(戦前の企業物価指数により算出)ほどになるという。こうして、世界に類のない鉄道車両は、1915(大正4)年10月に鉄道省大井工場(東京都品川区)で誕生した。

賢所乗御車の外観。車内は総ヒノキ造りで、昭和の末期でも“ヒノキの香り”が漂っていた=写真/宮内公文書館蔵
二枚折の観音開き戸を開けると、そこには“神様”とされる御神体を納める賢所奉安室がある=写真/宮内公文書館蔵
賢所奉安室の内部は、このような造りになっていた=写真/宮内公文書館蔵

使用されたのは2回だけ

賢所乗御車は、使途が限られることから、大正と昭和の即位の礼にしか使用されていない。いずれの時も、皇室の専用列車「御召列車(おめしれっしゃ)」に編成され、天皇とともに東京と京都を往復した。

現代では、東京と京都は新幹線で約2時間16分で移動できるが、当時は東京と名古屋でさえ13時間を要した。結果、途中の名古屋で一泊する行程が組まれた。もちろん、名古屋では天皇と一緒に御神体は“下車”し、名古屋離宮(旧名古屋城)で一夜を過ごした。走行する賢所乗御車の車内では、”神様のお世話役”である内掌典が、”御神体の御心をお鎮めするために鳴らす”鈴の音が、ときおり聞こえたと、当時の鉄道関係者は語っている。

平成の即位の礼の際にも、儀式を京都御所で行うべきか、皇居(東京)で行うべきかが議論された。実際には、皇居(東京)で行われ、賢所乗御車が平成の時代に使用されることはなかった。無論、こうした皇室の神事は、政教分離の原則から天皇家の私的行事として行っており、京都御所まで輸送することは現実的ではなかったのではないだろうか。

この“神がかった車両”は、車齢109年を迎えた現在も、東京都内にあるJRの車両修繕施設内で保管されている。

昭和御大礼の御召列車=昭和3年11月6日、当時の東京駅にて写す。写真/星山一男コレクション(筆者所蔵)
東京駅に到着した「賢所乗御車」を編成した御召列車。プラットホーム上では、掌典職らが「御神体」の到着を待ちわびる=1928(昭和3)年11月27日、東京駅、写真/宮内公文書

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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