マツダの初代デミオはマツダが経営難で苦境に陥っている時に登場し、見事大ヒットしてマツダの復活の起爆剤となりました。
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第22回目に取り上げるのは、初代マツダデミオだ。
トヨタや日産に匹敵する販売網の5チャンネル制
初代デミオは1996年にデビューしたマツダのベーシックコンパクトカーだが、それを語るためには、1990年代前半のマツダの黒歴史についても触れておく必要がある。少々長くなるがお付き合いいただきたい。
1989年にデビューしたユーノスロードスターは、海外ではMX-5、北米ではMX-5ミアータとして販売されて世界的に大ヒット。ライトウェイトオープンスポーツを認知させ、多くの自動車メーカーにも影響を与えた。
日本ではバブル景気と呼ばれたこの時期、日本の基幹産業である自動車業界はイケイケ状態で、それはマツダも同様で、その時期マツダが販売拡大のために着手したのが販売店の多チャンネル制。
もともとマツダの販売網は自社ブランドを販売するマツダ店と、フォード車を販売するオートラマ店の2チャンネル制だったが、アンフィニ店、ユーノス店、オートザム店の3つを一気に増設。トヨタ店、トヨペット店、オート店、カローラ店、ビスタ店のトヨタ、日産点、サニー店、モーター店、プリンス店、チェリー店の日産に匹敵する多チャンネル制だったのだ。
マツダ色を消したい!?
当時のマツダの国内シェアは、トヨタ、日産、ホンダ、三菱に次ぐ5番目。5チャンネル制は販売シェアを増やすためで、それぞれのブランドを大々的にアピールしたのが他社との大きな違い。ユーノスロードスター&コスモ、アンフィニRX-7、オートザムAZ-1など車名にブランド名を組み込んでいたのが特徴だ。しかもマツダ車なのにマツダは名乗らない……。
広島県出身でマツダに思い入れの強い筆者としては、”マツダ”という名前を消そうとしているようにしか感じられなくてとても嫌だった。
日の目を見なかったアマティブランド
ブランド構築に必死のマツダは、1991年に北米市場でトヨタのレクサス、日産のインフィニティ、ホンダのアキュラに対抗する高級ブランドの『AMATI(アマティ)』を1994年から展開すると正式に発表。レクサスLS、インフィニティQ45、アキュラRLはもとより、高級車の代名詞メルセデスベンツSクラス、BMW7シリーズをもライバルとするモデルを投入すると息巻いていた。
しかし、期待されたアマティブランドは日の目を見ることなく計画が頓挫してしまった。新開発の12気筒エンジンの開発の遅れなどがその要因とされたが、最大の理由はマツダの財政が大幅に悪化したためだ。
マツダにとって失われた8年
もともとマツダの5チャンネル制は、専門家筋からは「無謀以外何物でもない」、と危惧されていたが、残念ながらその指摘どおりとなってしまった。販売を伸ばすどころか、逆に販売を落とすことになり、1996年頃から販売網の統廃合が行われた。ロードスターについてはユーノス店がアンフィニ店と統合されて消滅した後もユーノスロードスターを名乗っていたが(2代目のNB型からマツダロードスターに改名)、アンフィニRX-7はマツダRX-7となった。
5チャンネル制は1989年のユーノスブランドの立ち上げが契機となったわけだが、10年足らずで終焉を迎えた。よく”失われた〇年”という表現が使われるが、マツダにとって5チャンネル制を採用していた時期は、失われた8年ということになるのだろう。
経営難によりフォード傘下入り
マツダはこれまでに幾度となく会社存続のピンチを迎えているが、5チャンネル制の失敗によりマツダは深刻な経営危機に陥った。
1978年にフォードがマツダの前進企業である東洋工業が25%の株式を取得して、フォードとの資本提携が始まったが、1996年にフォードは出資比率を33.4%にしたことで、マツダはフォード傘下となった。その結果、フォードから送り込まれていた当時副社長だったヘンリー・ウォレス氏が日本の自動車メーカー初の外国人社長に就任した。
初代デミオはBU-Xの市販版!!
初代デミオは暗黒時代の真っ只中といえる1996年に登場。マツダは1995年の東京モーターショーでBU-Xというマルチパーパスビークルのコンセプトカーを出展していたが、初代デミオはそのBU-Xの市販版だ。
BU-Xはコンセプトカーと言っても非現実的なモデルではなく、そのまま市販されてもおかしくない現実味を帯びていた。今で言うところのクロスオーバーカーで、ハイトワゴンとRV(SUV的なクルマ)をミックスしたようなコンセプトだった。
BU-Xに張り付き!!
1995年と言えば筆者は編集者になって2年目の時。で、東京モーターショー1995だ。学生時代から東京モーターショーには何度か行っていたが、仕事として初めて迎えた東京モーターショーということで気合入りまくり。
バブルは弾けていたとはいえ、ショーはコンセプトカーが百花繚乱の賑わいを見せ、クルマの祭典と呼ぶにふさわしい盛り上がりを見せていたのだ。
東京モーターショー1995では、トヨタMR-J(MR-Sのベース)、ホンダSSM(S2000のベース)が注目を集め、マツダはRX-01(期待されながら市販化されず)し、今後登場するスポーツカーに注目が集まっていた。
ということでメインどころは先輩方が担当し、若手が脇を固めるという感じだったが、筆者は広島出身ということもありマツダブースのBU-Xに張り付いていた。
デミオを見て正直ガッカリ!!
BU-Xを見てまず思ったのが日産のラシーンのようなクルマだな、というものだった。グリルガードを模したフロント回りの処理はタフさを感じさせ、背が高いことでユーティリティもよさそう。ルーフレールもアクティブな雰囲気で似合っていた。ボディサイズは小さいけど安っぽくないのがいい。
しかし、実際に市販されたデミオを見ると……。RVテイストはまったくないし、ただ背の高いコンパクトカーじゃないか、と少々ガッカリした。特に小さいけど安っぽくなかったBU-Xに比べて外板はペラペラで安っぽい!! 思い入れが強いクルマだっただけに、「コンセプトカーと市販車は違うと言ってもこれは詐欺だろ!!」って悲しくなった。
知れば知るほど悲しくなった
編集者というのは事前に新型車の情報を得ることができる。BU-X改めデミオの事前資料を読み、追加で取材もする。
初代デミオは実質オートザムレビューの後継的モデルだ。レビューと言えば小泉今日子さんをCMキャラクターに抜擢。女性をターゲットとしていたが、あまりにも可愛すぎるデザインが女性からも敬遠されたといういわくつきのクルマだ。
初代デミオはメカニカルコンポーネントをレビューから流用している。そのレビューは名車フォードフェスティバのコンポーネントを使っていることを考えると、設計自体がかなり古い。この時点で絶望的な感じになった。
インテリアは絶望的
メーカーの開催する試乗会で、いざ実車のデミオにご対面となった。写真で見るよりもデザインはスッキリしていていいと感じたが、筆者の悲壮感を覆すほどではなかった。それよりも、インテリアが……。とにかく安っぽい。インパネ回りはプラスチック剥き出しだしで味気ないし、シート素材だってチープ。使い勝手のよさを売りにしているのに、ドアミラーには電動格納が付いてなかったり、リアゲートもプッシュボタンがなく外から開けることができない。「安っぽいにもほどがあるだろ」、これで完全にマツダも終わったな、というのが当時の正直な感想だ。
マツダの名誉のために言っておくと、筆者が絶望したドアミラー、リアゲートは後に改良されて電動格納、プッシュボタン装着の改良を受け魅力アップしている。
ハイトワゴンの走り的モデル
しかし、実際は筆者の思っていたのとは真逆で大ヒット。マツダ好きとしては売れたことはうれしかったが、自分のマーケティング能力のなさにガッカリ。クルマは好きでも動向は読めないことが露呈したのも初代デミオで、いい教訓とさせてもらった。
当時は1994年にデビューしたホンダオデッセイのメガヒットにより乗用車タイプのミニバンが猛威を振るっていたこともあり、コンパクトカーも室内の広さが求められていた。初代デミオはタワーパーキングがギリギリOKな余裕のある全高とそれによる室内空間の広さ、室内のアレンジの多彩さ(自転車も積載できる)などによりコンパクトカーながらミニバンのような実用性を持っていたことでユーザーから評価された。当時はまだハイトワゴンという言葉はなかったが、初代デミオはその走り的モデルだった。
走って初めてマツダ車を実感
初代デミオは1.3Lと1.5Lの2種類のエンジンをラインナップしていた。量販モデルは1.3Lだったが、こちらは特別感激もない代わりに不満もない。一方上級の1.5Lは軽い車重には充分すぎるパワー&トルクで、このクラスでは快速ぶりを披露。ただ、1.5Lは1.3Lよりも価格設定が高かったので、ほとんどが1.3Lだった。
実際に運転しても軽快で気持ちよく、正直なところ走って初めてマツダ車であることを実感した次第だ。
CMキャラクターにピッペンを抜擢
初代デミオはCMキャラクターにNBAのシカゴブルズのスコッティ・ピッペンを抜擢したのが話題になった。ピッペンがバスケットボールを右手に持ってデミオの後ろで手を広げているビジュアルはいたるところで目にした。
知名度ではマイケル・ジョーダンに及ばずとも、ピッペンは日本でも人気があった。王道はエアジョーダンだったが、ちょっとスレていた私は1990年代のスニーカーブームでは、エアピッペンを履いていた。私の母親世代にとってはただの外人だっただろうが、ピッペンは若者への訴求という点では満点だった。
岡本太郎先生の死
ピッペンに触れたので、初代デミオが登場した1996年について振り返ってみる。スニーカーブームやGショックブームもあったが、個人的に一番心に残っているのは、芸術家の岡本太郎先生がお亡くなりになったこと。キリンのウィスキー、ロバートブラウンのノベルティの岡本太郎先生作の「グラスの底に顔があっていいじゃないか」のグラス、お持ちの方、お安く売っていただけませんか?
7月の祝日、『海の日』が設定されたのもこの年。あとは悪い意味で覚えているのが『たまごっち』。初めてネットオークションをやって、まんまと詐欺られた……。
デミオがマツダを救った
初代デミオは、1996年から2002年までの約6年間販売され、日本国内で約50万台を販売。マツダ車としては1980年にデビューして陸サーファー御用達として日本でブームとなった『赤いファミリア』以来のメガヒットモデルとなった。
初代デミオがデビューした1996年のマツダの決算は悲惨なもので、有利子負債は7000億円と伝えられていた。前述のウォレス社長は、コストカットを励行し1997年は黒字に転換。初代デミオがすべてではないが、傾きかけたマツダの復活の起爆剤になったのは間違いない。
マツダは不思議なくらい定期的に経営難に陥る。1980年代のピンチを救ったのが赤いファミリアで、1990年代のピンチを救ったのは初代デミオということになる。ちなみに2000年代、リーマンショック後の救世主はSKYACTIV技術でありCX-5となるだろう。
最もマツダらしくないクルマ
大成功に終わり、マツダを救うかたちとなった初代デミオ。開発者は当時、初代デミオについて、「マツダ車としては異例の短期間での開発だった」とコメントしていた。マツダ車はいい悪いは別として、こだわりが凄い。そのこだわりがユーザーのニーズと乖離することも珍しくないのだが……。
そんなマツダ車にあって初代デミオは妙に脱力している。マツダ車のDNAである走りへのこだわりも初代デミオには強く感じない。安くユーザーのニーズに合わせたいいクルマを作る、というのがあるのみ。
あとにも先にも初代デミオほど、『道具』に徹した割り切ったマツダ車は存在しない。そういう意味では最もマツダ車らしくないマツダ車とも言える。
初代デミオは、「安っぽすぎる」とユーザーが敬遠して売れなかった可能性もある。成功と失敗は紙一重というが、マツダのいい意味での割り切りが神風を吹かせたのだろう。
今はデミオの車名は消滅
そのデミオは、キャンバストップで有名になった2002~2007年の2代目、スポーティなエクステリアとSKYACTIVによる好燃費で人気となった2007~2014年の3代目、そして2014年に登場した現行の4代目へと続いている。
ただし現行の4代目は、2019年に世界統一車名のMAZDA2に変更されデミオの車名は23年間で消滅してしまった。
そのMAZDA2についてだが、次期モデルについてはどうなるかがまったくわからない。マツダオリジナルのモデルの駆初が凍結され、トヨタヤリスのOEMとなる噂もあるし、現行モデルを当面作り続けて終焉となるという噂もある。
【初代マツダデミオ1300LX主要諸元】
全長3800×全幅1670×全高1535mm
ホイールベース:2300mm
車両重量:910kg
エンジン:1323cc、直列4気筒SOHC
最高出力:83ps/6000rpm
最大トルク:11.0kgm/4000rpm
価格:111万1000円(AT)
【豆知識】
アマティは北米で展開予定のマツダのフラッグシップブランドで、日本で販売していたユーノスよりもさらに上級で、レクサス、インフィニティ、アキュラがライバル。W12気筒エンジンを搭載したアマティ1000を筆頭に、アマティ500(ユーノス800)、アマティ300(ユーノス500)、クーペ(ユーノスコスモ)というラインナップで1994年初から北米・カナダで販売開始することを1991年に発表。ディーラー網の整備なども行われていたが、直前になり計画が白紙となり実現しなかったマツダの幻のブランド。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MAZDA、ベストカー