薩摩の島津に落ち延びたが…
ここまでは順風満帆、絵に描いたような出世物語でした。
秀家の人生を狂わせたのが関ヶ原の戦いです。正義感の強い秀家は、石田三成の「秀頼様のために徳川家康を倒す」という言葉を聞き、西軍につきました。しかし、小早川秀秋の裏切りもあって西軍は敗北。血気にはやる秀家は、秀秋の裏切りを見て激怒し、刺し違えるべく単騎斬り込もうとしたという逸話が残っています。が、家来に諌められて伊吹山中に身を潜め、薩摩の島津のもとに落ち延びて僧となりました。
その後島津にも幕府の追及がおよび、慶長8(1603)年、ついに秀家の身柄は幕府に引き渡されました。当然、死罪も考えられましたが、豪姫の実家である前田家と島津家の嘆願で、八丈島への流罪と決まります。こうして慶長11(1606)年、秀家と息子2人、そして家臣10名が、当時は絶海の孤島・八丈島に送られたのでした。豪姫も一緒に行くことを願いましたが、これは許されません。八丈島は江戸時代、流刑地となり多くの罪人が流されましたが、秀家たちはその第一号でした。
「広島の酒を所望したい」と申し出た老人
夫を思う豪姫と前田家では、幕府の許しを得て1年おきに白米と金子、医薬品などを送った記録が残っていますが、それでも八丈島での生活は苦しいものだったのでしょう。こんな話が残っています。
安芸広島49万石の領主・福島正則は、江戸にいる際、広島から船で酒を運ばせていました。ある時その船が嵐に遭い、八丈島に漂着しました。するとそこに老人が現れ、「福島殿の船とお見受けするが、広島の酒を所望したい」と申し出た、その老人が秀家だったとか。