今ではスバルの屋台骨を支えるインプレッサですが、そのデビューにはいろいろ逸話があり、紆余曲折の連続でした!!
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第33回目に取り上げるのは、初代スバルインプレッサだ。
スバルの新たな世界戦略車
初代インプレッサは、レガシィシリーズとコンパクトカーのジャスティの間を埋める世界戦略車として1992年にデビューする。コンパクトながらユーティリティに優れたセダン&ワゴンで、スバルにとってはレガシィ以上に数を売ることが必須の重要なクルマだ。しかし今やスバルの屋台骨となったインプレッサも、その登場までの間は紆余曲折の連続。初代インプレッサを振り返るにあたり、まずは経営難に陥っていた1980年代後半から説明しておく必要がある。
アメリカ市場の激変
日本車はアメリカで販売を伸ばし、この世の春を謳歌していた。日本車は安い、信頼性が高いということが評価されてアメリカ市場で人気となったが、スバル車も例外ではない。
特に1979年の第2次オイルショックによって、ガソリンを大食いするアメリカ車に比べ日本車は低燃費だったこともあり人気となり販売台数を大きく伸ばした。
それに対しアメリカのゼネラルモータース(GM)、フォード、クライスラーのビッグ3は販売不振により大領の従業員をレイオフするなど苦境に陥っていた。
アメリカでの日本車の販売が伸びるのは、すなわち対米の輸出が増えるということ。自国の自動車産業を守るため、当時の大統領だったロナルド・レーガン大統領は、日本車に対する輸出自主規制を要望。
急激な円安で大ピンチ
現在日本は円安状態が続き、2024年月には1ドル=160円台という超円安となっていた。その後一時円高傾向になったものの10月5日現在は1ドル=148.72円となっている。輸出の場合、為替レートにより利益は大きく増減する
詳細は割愛するが、1985年に先進国がアメリカ経済救済のための対米輸出黒字削減の円安に合意(通称プラザ合意)。それにより円高が急激に進んだ。当時1ドル=240円程度だったものが、2年後には1ドル=140円台までになったほど。
この急激な円高により当然利益は激減し、スバルのアメリカ現地法人のSAO(SUBARU OF AMERICA)は1987年には3000万ドルの赤字を抱える事態になってしまった。
輸出から現地生産にシフト
プラザ合意後の急激な円高により日本メーカーは輸出よりも現地生産にシフトせざるを得ない状況になり、日本メーカーは続々とアメリカに工場を建設。スバルは単独ではなくいすゞと合弁会社のスバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)をアメリカのインディアナ州に設立。スバルのほうが出資比率が高く、イニシアチブを握っていた。
しかし、スバルにとっては円高による赤字、工場設立のための予算捻出と経営的にはダブルパンチだった。さらにはフラッグシップのレガシィの開発費が想定上にかかったということでトリプルパンチ!!
初期は直4エンジン搭載で開発
前置きが長くなったが、この苦境に陥っていた時とインプレッサの開発時期が重なるのだ。スバルはレオーネの後継車のレガシィ用に2Lの新開発水平対向エンジン(EJ20)を開発。これにも多額の予算が充てられたわけだが、当初初代インプレッサは、スバル伝統の水平対向エンジンではなく、直列4気筒エンジンの搭載を前提に開発が進められていた。初期段階ではエンジンを新開発することを前提に、小型車のジャスティ(1984~1994年)の1L、直列3気筒エンジンをベースにした1.5L、直4を搭載してテストが行われていた。
水平対向ではなく直4だったのは、1.5Lクラスがメインとなるインプレッサの場合は、国際的な競争力を考えると、メジャーな直4エンジンのほうが将来的に燃費など技術的発展も見込めるというもの。ボクサーエンジンはスバルのアイデンティティであり伝統でもあるのだが、スバルのエンジニアはある種の「直4コンプレックス」があったと言われている。
エンジニアは落胆
しかし、インプレッサの直4搭載計画は前述のプラザ合意などによる大規模な赤字、レガシィ開発費用、SIAの工場建設費用のトリプルパンチによりスバルはいつ倒産してもおかしくない、と噂されるまでになった。
インプレッサは開発中止の憂き目こそ回避できたが、直4エンジン搭載計画は白紙に戻され、レガシィ用の水平対向エンジンを排気量ダウンさせる方向となった。「落胆するエンジニアたちが、再びモチベーションを上げるのは大変」、とSTIの初代社長である久世隆一郎氏(2005年にご逝去)から聞いたことがある。
一転初代インプレッサは、エンジン、プラットフォームともレガシィがベースに開発が切り替えられたわけだが、エンジニアのモチベーションが高まった要因は、「レガシィよりもいいクルマを作る!!」、ただその一点だったという。
まずエンジニアは軽量化に取り組んだ。1.5Lクラスで最軽量を目指し、インプレッサは車重が重くなるワゴンでレガシィ比10%以上、レオーネよりも軽い1200kgという軽量ボディを実現したのだ。
ノーマルモデルが大事
初代インプレッサはセダン、スポーツワゴンのラインナップとなっているが、WRC参戦を前提に開発されたターボを搭載するハイパワーモデルのWRXが世界的な大ヒットの要因となっているのは明らか。
しかし、前出の久世氏は、「開発当初はエンジニアには2Lターボ搭載モデルが存在することは秘密にされていた」と語ってくれた。その理由は、ターボの存在がわかると、ベースモデルの開発よりもそちらに開発が集中してしまうことを恐れたためだという。ベースとなるノーマルモデルをしっかり作ってこそ、高性能版がさらによくなるという考えだ。このあたりは、こだわりのスバルらしいところで、初代インプレッサだけでなく、「ベースありき」というのは歴代スバル車に通じるコンセプトだ。
WRCに参戦するためのクルマ
ということで2Lターボ搭載モデルの存在が開発陣に知らされたのは、ベースとなるシャシー、サスペンションなどの開発に目処が立ってから。
2Lターボの搭載モデルと同時にエンジニアに告げられたのは、初代インプレッサでWRCに参戦するということ。開発陣のモチベーションがさらに上がったのは言うまでもない。
初代インプレッサのターボモデルのグレード名はWRX。WRはワールドラリー(WRC)、Xは未知数=無限の可能性を意味するものとして命名されたのだが、そもそも開発呼称のようなもので、エンジニアの間で呼ばれていた名称だったという。
しかし、レガシィに搭載している2L水平対向4気筒ターボを狭いボンネットにいかに収めるかから始まり、冷却、ターボ化による重量増のなか重量配分の最適化をどうするか、ボディ、サスペンション剛性、さらには短いオーバーハングのなかインタークーラーの装着などなどクリアすべき壁は高かった。
ラリーで勝つためにベース車を強化
しかし、エンジニアのモチベーションは高かった!! ただでさえ開発予算が削減されて苦しいのに、すべてをクリアしていった。
WRCに参戦する、というのはエンジニアだけでなくマニアック集団のスバル全体のモチベーションを上げたのは間違いない。
WRCに参戦を前提というのは、すなわちレガシィに代わるWRCマシンのベースとなることを意味していた。
スバルは1988年にスバルのモータースポーツ、市販車のパーツの開発販売を手掛けるスバルテクニカインターナショナル(STI)を設立。さらにイギリスのプロドライブと1989年にスバル・ワールド・ラリー・チーム(SWRT)を結成し、初代レガシィセダンでWRCにワークス参戦を開始。次期マシンのベースとなるWRXの開発においては、STI、プロドライブと車両開発段階から綿密な打ち合わせをし、プロドライブの意見も聞き入れ市販車に反映させていた。
それは当時のWRCのトップカテゴリーが、市販車から改造範囲の狭いグループA規定で争われていたからで、市販車の優劣がそのままラリーカーに反映された。ラリーの実戦を考慮した冷却系の強化、市販モデルながら、エンジンにウォーターインジェクションが装着されているのはその典型例だ。日本車でここまで開発段階からこだわったクルマは初めてだったのではないだろうか。
さらにWRCのスバルのワークスドライバーのコリン・マクレーが開発に携わったと言われている。
インプレッサでスバルへの期待感が高まる
紆余曲折を経て、初代インプレッサは1992年にデビュー。特にスポーツワゴンは、レガシィツーリングワゴン人気によりワゴンブームが到来していた日本で、レガシィとはまったく違うデザインテイストのオシャレなワゴンとして女性から支持された。
一方セダンは、ギュッと凝縮した塊感のあるデザインが特徴で、1.5Lエンジン搭載のベーシックモデルは手頃なサイズの実用セダンとして人気となった。そしてトップグレードのWRXは走り好き、特にスバリストを狂喜させたのは言うまでもない。デビュー時に、ラリーで勝つために生まれたクルマ、と大々的にアピールしたのは大成功で、当時の日本ではWRCといえばトヨタ、三菱のイメージが強かったなか、「何かやってくれそう」、とスバルへの期待感を持たせてくれた。
販売面でも大きく貢献し、レガシィとともにスバルを苦境から救った。ただ、初代インプレッサが当初の予定どおり、直4エンジン搭載でデビューしていたらどうなったのか? 気になるところではあるが、今ほどの名声を得ていないような気がする。
同じ1992年に宿敵のランエボ登場!!
初代インプレッサがデビューした1992年といえば、この後永遠のライバルとなる三菱ランサーエボリューションが登場。そしてこの両モデルは、この後に世界のクルマ史で稀に見る開発合戦を繰り広げることになる。
初代インプレッサについて言えば、STIの存在が非常に重要で、1994年にSTIバージョンを登場させてから状況が一変する。
このあたりについては別の機会にお話したいと思う。
【初代スバルインプレッサWRX STi主要諸元】
全長4350×全幅1690×全高1450mm
ホイールベース:2520mm
車両重量:1200kg
エンジン:1820cc、水平対向4気筒DOHC
最高出力:115ps/6000rpm
最大トルク:15.7kgm/4500rpm
価格:207万円(4AT)
【豆知識】
STIは1988年に設立。初代社長はスバル1000の開発に携わり、その後スバルの技術統括などを担当した久世隆一郎氏。STIはスバルテクニカインターナショナルの略で、スバルのモータースポーツを統括するほか、スバルの市販車のパーツを開発・製造・販売を手掛けている。スバリストから絶大な信頼を得て、モータースポーツではWRCのほか、ニュルブルクリンク24時間レース、スーパーGT、スーパー耐久への参戦のほか、ラリー、レースでのプライベーターをサポートしている。STIは2005年にSTIの表記で統一されたが、それ以前はSTi(iが小文字)だった。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/SUBARU、ベストカー