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実母に毒を盛られ

その後政宗は領土を広げ、天正17(1589)年、会津の蘆名義広を磐梯山の麓、摺上原(すりあげはら)の戦いで破り、南奥州を制圧。会津若松城の前身である黒川城に入り、南への進出を企てますが、そこに待ったをかけたのが豊臣秀吉です。

天正18(1590)年、小田原征伐に参加せよと秀吉から催促がきましたが、これを黙殺。伊達家は北条氏と同盟関係にあり、秀吉と一戦交えるか否か、迷っていたといいますが、反抗心があったことは明白です。

さらに実母が政宗に毒を盛り、弟の小次郎を立てようとする事件も起きました。実母は隻眼の政宗より性格温厚な政宗の弟・小次郎がかわいかったようですし、先述したように彼女は政宗のライバル、最上義光の妹でした。反伊達連合に加わった最上氏との争いで起こった事件ですが、危うく命を落としそうになった政宗は弟、小次郎を斬殺し、母を追放します。

仙台城の大手門脇櫓 Photo by Adobe Stock

「もう少し遅かったらここが飛んでおった」

こうしたこともあって政宗の小田原参陣は1カ月以上遅れてしまいます。激怒した秀吉に対して政宗は、ツラーっとしてこう申し述べます。

「田舎ものゆえ礼儀をわきまえません。願わくば小田原にいらっしゃる天下の茶人千利休にお目通り願い、茶の湯を習いたいと思います」と詰問役の前田利家に告げたといいます。それを聞いた秀吉がその図太さに興味を持ち、謁見を許すと、政宗は死装束に身を包み髪を下ろした姿で現れたといいます。

その姿で堂々と申し開きをする政宗に、パフォーマンス好きの秀吉は政宗のクビを叩いて「もう少し遅かったらここが飛んでおった」と笑ったといいますが、政宗も大胆なら秀吉も器量の大きさを見せ、実に面白い対決だと思います。

私はこの政宗の一連の行動や発言は、すべて前述の片倉小十郎の入れ知恵だと思っています。秀吉が面白がれば、伊達は助かるという計算があったと思います。

伊達政宗公騎馬像 Photo by Adobe Stock
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「あわよくば……」という天下への野心...
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松平定知
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