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「あわよくば……」という天下への野心

関ヶ原の合戦の際は家康の東軍につき、上杉景勝軍と戦います。その際に家康から「百万石の御墨付き状」をもらっていますが、実際には2万石しかもらえませんでした。和賀氏が起こした一揆を扇動したとして家康を怒らせてしまったのです。政宗は戦いが長引くと思い、どさくさに紛れて領土拡大を狙ったのだと思います。

このあたりは黒田官兵衛と同じで、「あわよくば……」という天下への野心が見え隠れするところです。その後、仙台に移り、仙台城の普請を始めます。広瀬川の断崖を利用し、新たに城下町を作る大工事でのべ100万人が関わったと伝えられています。

仙台城から見た仙台市内  Photo by Adobe Stock

織田信長を尊敬した

政宗は織田信長のことを尊敬したと伝えられています。時代感覚やその精神的な強さにおいて2人は傑出しています。政宗は、戦国のビッグ3より20~30年若いために世間の人からは、よく「遅れてきた天下人」といわれますが、本人はちっとも「遅れてきた」とは思っていないと、私は思います。

政宗はエスパーニャ(スペイン)との交易を求めて、政宗が500トン級の西洋型軍船サン・ファン・バウティスタ号を建造、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを派遣します。慶長遣欧使節と呼ばれる一行は太平洋をメキシコに向かい、そこから大西洋を渡って1615年エスパーニャで国王フェリペ3世に謁見し、さらにローマに向かい法王パウロ5世から祝福を受けています。

仙台城の支倉常長像 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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