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砧線延伸の終着駅は、小田急線の「和泉多摩川駅」だった

砧線は、砂利運搬を目的として開業したわけだが、1925(大正14)年には「狛江線(こまえせん)」という路線名で、砧線の砧駅から先に線路を伸ばすことが計画される。これは、1929(昭和4)年7月に「砧村・狛江村間軌道(路面電車)の起業」として特許を受け、より現実味を帯びることとなった。しかし、思うように事が進まなかったようで、当初の計画では1930(昭和5)年5月までに開通させる目標だったものが、あえなく延期され、この延期は以降20年以上にわたり続くことになる。

時を同じくして、玉川電気鉄道のいわば兄弟会社となる「目黒玉川電気鉄道」が起業し、目黒~多摩川(等々力のあたり)~鎌倉(神奈川県鎌倉市)、目黒~清水(目黒区目黒本町)~駒沢、清水(同)~二子玉川と、路面電車ではない俗にいう鉄道線(地方鉄道線)の路線建設を企てた。この目黒玉川電気鉄道の構想は実現することなく、1935(昭和10)年に会社は起業廃止・解散している。当の玉川電気鉄道も、1938(昭和13)年に東京横浜電鉄(→のちの東京急行電鉄→現・東急電鉄)に吸収合併された。狛江線の計画は、そんな時代の出来事でもあった。

いつのころからか、狛江線の名称は書類上からは消え「砧線」と記載されるようになった。工事期限は、変わらず延期し続けていた。先の大戦が佳境を迎えた1943(昭和18)年になると、国は(鉄道の)輸送力増強を行うことを推奨し、軌道線(路面電車)からいわゆる地方鉄道法に基づく鉄道線へと変更願いを申請すれば、許可を出すという一手に出た。

砧線は、同じ玉電でも玉川線とは異なり、路面電車でありながら道路上ではなく、専用軌道と呼ばれる独立した線路の上を走っていた。これは鉄道線としての条件を十分に満たしていた。そこで、この機会に”みなし軌道線”から脱却することを選択する。昭和20年10月から地方鉄道法に基づく鉄道線へと、業態変更を行ったのだ。しかし、砧線の延伸予定区間である砧~和泉多摩川(書類上は砧村~狛江村)は、軌道法による路面電車のまま、据え置かれた。

それから6年の歳月が過ぎた1951(昭和26)年9月になると、東京急行電鉄は「砧村・狛江村間軌道起業廃止届」を運輸大臣と建設大臣あてに提出した。その理由は、「(砧線を延伸するよりも)狛江村と都心を直結する方が得策と考え、昭和26年3月をもって(東急世田谷線の)上町~荒玉浄水場前(世田谷区喜多見)間の免許申請をしたので、先の起業を廃止する」というものだった。

翌(昭和27)年6月4日付で廃止が認可され、砧線の和泉多摩川駅への延伸計画は、夢となり消え去った。本来、起業を廃止した場合、与えられた”特許状”を返納する必要があるのだが、先の大戦による戦災(昭和20年5月の空襲)で特許状は焼失したとして、返納は行われていない。

砧線の延伸計画区間(砧村~狛江村)の軌道起業廃止を運輸省と建設省(当時)に届け出た書類。昭和26年9月25日に届け出を行い、翌(昭和27)年6月4日に廃止が認められた=資料/国立公文書館蔵
1939(昭和14)年2月に東京市電気局が取りまとめた「東京市交通機関網図」。砧線の延伸区間が記されている貴重な資料で、計画上の終点が、小田急線の「和泉多摩川」駅だったことがわかる=資料/国立公文書館蔵
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新玉川線の建設と玉電(玉川線・砧線)の廃止
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