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新玉川線の建設と玉電(玉川線・砧線)の廃止

沿線人口の増加によって玉電の輸送力に限界が見え隠れしていた1956(昭和31)年になると、東京急行電鉄はあらたに玉電玉川線に代わる地下鉄=新玉川線(現・田園都市線の地下鉄区間)の建設を目指すことになった。

その計画は、第一次案では玉電とまったく異なるルート、第二次案は渋谷~三軒茶屋間を玉電ルートで地下鉄とし、三軒茶屋~二子玉川園間は玉電玉川線とは異なるルートで高架区間とする計画だった。そして、渋谷からは銀座線(現・東京メトロ)へと乗り入れることも検討されていた。

いっぽう、砧線はというと、これらの建設案に加わることなく、バスによる代行輸送として廃止前提で話が進められていた。新玉川線の建設にまつわる話は、この先に進んでも砧線と直接的に結びつかないので、建設計画の序章を簡単に説明するだけにとどめておく。

玉電(玉川線)はその後、東京オリンピック(1964/昭和39年)が行われるころには、自動車の普及が急速に進んだこともあり、道路渋滞の元凶として「ジャマ電」と揶揄されるようになった。これにより、廃止がより現実のものとなっていった。1968(昭和43)年には新玉川線の建設が決定し、翌1969(昭和44)年5月10日に砧線は、玉川線とともに廃止された。これにより45年間という砧線の歴史は幕をおろした。

「ジャマ電」と揶揄されたころの玉電(玉川線)の光景。駒沢停留所で=1969年3月、世田谷区駒沢、写真提供/宮田道一コレクション
新玉川線の計画路線図。東京急行電鉄50年史(1972年)より=資料所蔵/JLNA
造花やモールで飾られた惜別電車「さよなら玉電」。廃止直前とはいえ、線路内で撮影が許されるおおらかな時代だった=1969年5月、写真提供/飯島巌コレクション
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二子玉川から廃線跡をたどる
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工藤直通
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