廃線跡をたどる
御陵線(北野駅~御陵前駅間)6.4kmのうち、北野駅起点から3.76kmまでの路盤(線路跡)は、京王高尾線へと転用されているため、御陵線時代の面影を感じ取ることはできない。御陵線の廃線跡として残される区間は2.64kmあり、そのうちの約1km弱は市道“山田町並木線”へと転用されており、鉄道遺構は何も遺されていない。まずは、京王高尾線と御陵線が別れる分岐点へと向かってみた。
その場所は、めじろ台駅と山田駅のほぼ中間に位置し、御陵線の路盤(線路)跡は山田駅を背にして高尾線の線路から右に逸れるようにカーブしていた。その一部は、宅地造成により取り崩されていたものの、部分的に雑木林と化していた。この場所には、京王帝都電鉄(現・京王電鉄の旧社名)の社紋が入った敷地境界杭がいくつも遺されていたというが、確認することはできなかった。

その先は、住宅地と化しており、そこにも社紋入りの敷地境界杭が遺されていたらしいのだが、発見することはできなかった。住宅地の中を抜けていたであろう廃線跡は、200mほどで市道「山田町並木線」へと合流する。ここから甲州街道(国道20号線)との交差点に近い武蔵横山駅跡地までの間の廃線跡は市道と化しており、鉄道遺構は何も遺されていない。その途中にあるJR中央線とは、高架橋(中央線跨線橋)で超えていたのだが、廃線跡を転用した市道はアンダーパスする道へと生まれ変わっていた。
甲州街道(国道20号線)と市道が交わる交差点は、以前は「散田」という地名であったが、現在は「並木町」と名を変えていた。その交差点の角地には高尾警察署並木交番があり、この場所の周辺こそが御陵線の「武蔵横山駅」(北野駅より5.457kmの地点)があった跡地だ。駅は相対式の2面2線で、盛土と高架橋が連なってできた構造となっていた。電車はそのまま、目の前にある甲州街道を高架橋(横山架道橋)で越えていた。
甲州街道を渡った先は、盛り土構造だったが、その跡地は平地になっており、駐車場や戸建て・集合住宅などが建ち並び、当時の跡形は何もなかった。その先にある南浅川の手前(北野駅から5.527kmの地点)から高架橋〔浅川橋梁/上路桁7連〕で南浅川を越えていた。その先の住宅地には、以前“ブラタモリ”でも紹介されたコンクリート製の橋脚が2基現存している。一時は解体の話もあったようだが、土地の所有者の方が街の歴史的建造物として残しておきたいと残置を決め、令和の今もその姿を後世に伝えている。
当時の資料によれば、御陵線の高架橋(鉄桁)は全線で31桁あり、横浜線跨線橋・起点から0.624kmの地点〔9.754m×下路桁1連〕、学校前架道橋1.6km〔4.572m×1連〕、片倉架道橋1.731km〔15.545m×下路桁1連〕、山田架道橋3.675km〔4.572m×1連〕、散田架道橋5.16km〔3.658m×1連〕、中央線跨線橋5.18km〔10.973m×下路桁1連〕、新地架道橋5.216km〔4.267m×2連〕、横山架道橋5.327km〔5.468m×8連、6,121m×1連、4.845m×1連、15.850m×2連、4.318m×4連〕、浅川橋梁5.527km〔16.459m×7連〕と記録されている。
橋脚遺構を過ぎて先へと進んだ住宅地には、軌道敷跡(路盤)に沿って建つ家屋が見られた。ここから先は都営長房アパートへと廃線跡はつづくが、造成によって鉄道遺構(軌道敷)は跡形もなくなっていた。そのまま歩を進めると終点駅「多摩御陵前駅」のあった場所へと出た。このあたりは、駅のホームが3線あったことから鉄道用地が広かったこともあり、道路は駅跡を示すかのような線形を保っていた。
当時の御陵前停留場平面図と現況配置を見比べると、だいたいの駅の位置が想像できた。駅のそばにあるお寺さんとの位置関係から、確信を得た。駅前広場側の交差点の角にある内科医院のある場所が、駅の入口だったところだ。駅跡周辺に碑石でも建っているのではないかと思い探してみたが、見当たらなかった。
廃止から62年も経過していることを考えれば、そのことすら知らない人がいてもおかしくない時代である。散歩中と思しき年配の方に声をかけ、1964(昭和39)年ごろまで駅跡が空き地になっていた覚えはありませんか、と尋ねてみたが、50年前に越してきたのでわからないとのことだった。時代とともに忘れ去られし電車の面影はいずこへ。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。



































