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東京の下町・門前仲町の『すし三ツ木』店主・三ツ木新吉さんは、2022年で74歳。中学入学と同時に稼業の寿司屋を手伝い始め、板前稼業もかれこれ60年。日本が大阪万国博覧会で沸いていた昭和45(1970)年に、深川不動尊の参道に開店した店は52周年を迎える。昭和の名店と謳われた京橋与志乃の吉祥寺店で厳しく仕込まれた腕は確かだが、親父さんのモットーは気取らないことと下町値段の明朗会計。昔ながらの江戸弁の洒脱な会話が楽しみで店を訪れる常連も多い。そんな親父さんが、寿司の歴史、昭和の板前修業のあれこれから、ネタの旬など、江戸前寿司の楽しみ方を縦横無尽に語りつくします。 第9回は、戦後まもない東京に生まれ、少年時代からどっぷり寿司屋稼業に浸かってきた親父さんが、ちょっと不良がかっていた青春時代までのドラマチックな来し方を語ります。

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「上野下谷『キブ・ミー・チョコレート』から、中野鍋屋横丁の『勤労少年』まで」

団塊の世代の9割は大学に行っていない

織田信長を気取るわけじゃありませんが、最近〝人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり〟という心境になることが多くなりました。昨年の秋にちょっと大きな病気に罹ってしまって、2週間ほど入院したというのも関係があるのかもしれません。人間なんて所詮「起きて半畳、寝て一畳」なんてことを考えるようになってしまいました。

私が生まれたのは昭和23年の1月。学年でいえば、昭和22年度生まれということになります。ベビーブームの真っ盛りで、小学校は日本中どこにいっても学年で10クラスというのが当たり前の世代です。

人口が多いですから、プロ野球の世界だけとってみても、同学年で功なり名を遂げた選手は、堀内恒夫、鈴木啓示、若松勉、平松政次、門田博光、福本豊、谷沢健一、江本孟紀……と、キラ星の如くいます。我々の世代を懐かしい気分にさせてくれた映画『三丁目の夕日』の原作者・西岸良平さんも同学年だそうです。

俗に団塊の世代と言われ、学生運動に明け暮れたように語られますが、当時の大学進学率はやっと1割を超えたくらいです。春になれば、大学生になるより多い数の15歳が集団就職列車に乗って「金の卵」として大勢上野駅に降り立っていました。同世代の9割近くは、中学か高校を出て就職し、学生運動を横目で見ながら、必死で仕事を覚え、青春を謳歌していたはずです。

そんな9割の1人が、大東京に生まれ、還暦を過ぎるまでどうやって生きてきたか。自慢できるようなことはなにもありませんが、しばしお付き合いください。

戦後が色濃く残る上野のガキ大将

生を受けた場所は下町の上野下谷。住所でいうと台東区豊住町2番地(現在の東上野5丁目あたり)で、都電で上野駅前から三ノ輪橋方面に向かってひとつめの停留所、下車坂町が目の前にありました。郵便局の隣にあるカトリック上野教会に日曜日になると進駐軍が来ていたのを思い出します。私たちが、「ギブ・ミー・チョコレート」と言って米兵に手を突き出した最後の世代でしょうね。

子供の頃の遊びといえば、磁石で鉄拾い、都電のレールに置いてペッタンコにした五寸釘で陣地取りや、ベーゴマに馬跳び、チャンバラに少年探偵団ごっこ。はたまた、上野のお山の東京国立博物館に行って、塀に開いた穴から潜りこんでタダで鑑賞したり、国立科学博物館で鯨の骨を見て腰を抜かすという幸せな毎日でした。不忍池に行っては網で鮒を捕って追いかけられたけど、お母ちゃんは喜んでくれましたっけ。

そういえば上野駅の16番線ホームの最後尾にゴミ箱があって、そこに駅弁の残りがあったので友だちと皆で食べたこともありました。上野駅といえば、「チッキ」と呼ばれた鉄道小荷物があって、今でいう宅配便ですね。当時は荷物を駅に持ち込んで発送し、着駅で届け先の人が受け取っていました。その荷物を流すコンクリートの坂を滑り台代わりにして遊んで、よく駅員に叱られたものです。

京成電鉄の上野駅の上にある西郷さんの銅像の周りには、尋ね人の貼り紙がたくさん貼ってあり、まだまだ戦後の匂いが残っていました。地下道には傷痍軍人さんが当たり前のようにいて、ラーメン屋や洋服屋が軒を連ね、映画館まであった。その映画館にはよくもぐりこみましたが、蚤(のみ)がたくさんいてあれには参りました。

入学したのは下谷小学校。父は魚の仲買人。母は戦前からカフェをやっていて、家の中にはいつも何人かのお姉さんがいて、いい匂いがしたことを覚えています。昭和30年頃にホルモン屋に商売替えして、今度は夜になると家の中は煙だらけ。母の仕事が忙しくなると短期間ですが、母親の実家があった福島に預けられました。

上野駅から一人で東北本線の夜行列車に揺られ、松川で川俣線に乗り換え。朝、終点の岩代川俣駅に着くと、いとこのお兄さんがリヤカーで迎えにきていました。田舎にいる間は、純朴ないとこたちを従えて、ガキ大将としてやり放題。叔父さんの家の土蔵には錆びた日本刀があって、3人の従兄弟と隣の農家が畑で作っていた西瓜全部をその刀でぶった切った。私は一応東京から来たお客様ということで許されたけど、従兄弟たちはグルグルに縛られてこっぴどく叱られました。あとから聞いた話ですが、母は、当時、数万円というお金を弁償したそうです。迷惑をかけた叔父の家には、今でも盆暮れの挨拶は欠かすことなく続けています。

このときは、小さいながら毎日農作業の手伝いをしていたので、農作物のことのことを自然に覚え、それが、板前の修業を始めてから、大いに役立ちました。鍬や鋤の使い方や農作業の手順も今でも覚えています。「雀、百まで芸を忘れず」ですね。

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おとなの週末Web編集部 今井
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