名人の風格があった京橋の大親方
親方は、私と同じで酒には不調法なほうで、暇なときはよくコーヒーを飲みに行っていました。三軒隣りがエコーという喫茶店で、そこには有名な小説家とか画家といった人たちがよく来ていましたが、そういう人たちと軽口をたたきながら、「頼むよ」のひと言で好みのコーヒーが出てくる。「おれもいつかああいうふうになりてえな」と憧れたもんです。
趣味はダンスで、京橋時代は休みの日にはダンスに明け暮れていたようです。暇なときには、「新ちゃん、ワルツはこうやって踊るんだよ」ってなこと言いながら、店の中で楽しそうにステップを踏んでしました。ふと気がつけば、自分も暇さえあれば、若い衆相手に好きな釣りの話をしています。やってることは似ていますね。
3年後に親方が結婚。温厚でやさしいおかみさんが加わり、むさくるしかった男所帯がずいぶん変わりました。それまでみんなの食事の支度は私の仕事で、親方の希望を聞いて作るんですが、忙しいときのおかずはキャベツをちぎって、当時流行り出したマヨネーズをかけるだけ。珍しいもんだから、みんな満足していましたが、おかみさんが作るようになってそういうこともなくなりました。おかみさんは学校の先生をしていたそうで、外国のお客さんがきたときに英語を教えてもらった記憶があります。
吉祥寺で修業したのは約5年半。親方には、寿司職人に必要なあらゆることを教えてもらいました。仕込みや握り方といった技術的なことばかりじゃなく、立ち居振る舞い、言葉づかい、掃除の仕方、仕事に対する心構え……。実家で5年間、家業を手伝ってそれなりに仕事をこなせるつもりになっていた自分を、親方が一から鍛え直してくれたおかげで、今の自分があるのは間違いありません。
独立してからの何かと気にかけてくださり、あるとき、テレビ出演の話が舞い込んだとき、身体の加減が悪いにもかかわらず飛んできてくれて、修業のおさらいをしてくれました。鍛えられている頃は反発する気持ちもありましたが、自分が若い衆を預かる立場になってからは、親方のありがたさが身にしみるようになりました。今でもときに相談したくなることはありますが、既に他界され、もうそれも叶いません。
親方の葬儀、一周忌では、おかみさん、妹さん、友人方、そしてみんないいおっさんになった元弟子たちで、思い出話に花が咲きました。一瞬、あの頃に帰ったような気分になりましたが、久しぶりに歩いた吉祥寺の町は大きく様変わりして、当時の面影はなくなっていました。そういえば、あの頃一緒に遊んだ集団就職組は今頃どうしているんでしょうね。
親方の親方、京橋の大親方、吉野末吉さんにもずいぶん世話になりました。当時はホテルでのパーティなど大きな出張仕事があり、本店の板前だけでは足りなくなると、私も手伝いに行かされました。大親方の目の前で握り、仕事をほめられたときのことはいまだに忘れられません。涙が出そうになるくらいうれしかったですね。大親方は、深川の私の店にも足を運んでくださり、あれやこれやと教えていただきました。
大親方の元で修業された方の中には、今でも大活躍なさっている素晴らしい腕を持った先輩がたくさんいらっしゃいます。これぞ名人という風格がある方でしたね。