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早雲は、伊豆一国を手にした

いっぽう将軍は、新しい鎌倉公方として異母兄の足利政知を送りますが、前公方成氏の勢力が強く、鎌倉に入れずに伊豆の堀越にとどまって御所を建設しました。これが堀越公方(ほりこしくぼう)です。堀越公方の足利政知が没すると、長男・茶々丸が次期公方に決まっていた次男・潤童子(じゅんどうじ)とその母を殺害する事件が起きました。

この時、政知の三男で後に11代将軍となる義澄は、早雲に茶々丸を討つように命じたのです。早雲は堀越御所を急襲し、茶々丸を自害に追い込むことに成功しました。これを伊豆討ち入りといいます。その結果、早雲は伊豆一国を手にし、戦国時代の幕が上がったとされるのです。公方という権威が、旧来の守護大名ではなく、新しいタイプの武士に滅ぼされたわけです。

室町時代は権力構造が複雑で、わかりにくい時代ですが、大雑把にいえば、中央集権が壊れ、戦国時代という地方分権に移行する過渡期です。早雲の出現と伊豆討ち入りは、その流れを作った大事件といえるでしょう。

早雲がこうして、いわゆる伊豆討ち入りを果たして以降、関東は“戦国期”に入ったと考えられます。この時、早雲、すでに56歳。「人生50」といわれた当時は老人もいいところですが、彼の武将としての人生はなんと、ここから始まるのです。

空から見た小田原城址公園 show-m@Adobe Stock

「五公五民」が普通でしたが、「四公六民」に

早雲は伊豆・韮山城を拠点とし、領国を広げていきます。ただし農民が戦いで苦しむのを避けるため、敵が降伏を申し出た時は領地を保証し、兵の狼藉を戒めました。疫病が蔓延して村人が何百人も亡くなった時は、戦いを中断し、兵に村人を看護するように命じたりもしました。病が一段落して「じゃぁ、戦(いくさ)を再開するか」と言った時、助けてもらった村人は、誰一人として早雲と戦う者はいなかったといいます。「民にやさしい領国経営」は税制でも実践しました。当時は「五公五民」が普通でしたが、「四公六民」にしました。商工業の発展にも力を尽くしました。「他国の百姓これを聞き、われらの国も新九郎殿の国ならばや、と願う」といわれたほど、善政を敷いたのでした。

そのいっぽうで、地方豪族の大森氏が支配していた小田原城攻略の際には、贈り物で気を許させておいて、「鹿狩りをしていたら、鹿が城の裏山に逃げ込んだので、鹿を追い出すべく勢子を入れさせてほしい」と頼み、勢子に扮した早雲の兵士が裏山から城になだれ込んで大森氏を討つという奇策を成功させています。これは、目的のためには手段を選ばないというやり方ですが、戦国時代、こうした手法は、まあ許容範囲のうちだと思います。

永正13(1516)年に相模を平定した時、早雲は85歳でした。その頃の領国に出した朱印状の押印には「禄寿応穏」とあります。つまり、民が平和に暮らせるようにとの願いが込められたものでした。その思いが、後北条五代100年の基礎となったのです。

小田原城 okimo@Adobe Stock
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松平定知
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