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首を縦に振らない皇太后

1945(昭和20)年5月25日の22時過ぎから始まった米軍機(B-29)250機の空襲により、赤坂御用地(東京都港区元赤坂)に当時あった大宮御所(皇太后の住まい)、東宮仮御所(皇太子の住まい)、青山御殿は焼失した。皇太后であった貞明皇后は、併設していた六畳一間ほどの窓もない御文庫(地下防空壕)で生活することになった。これを不憫(ふびん)に思った昭和天皇が疎開をうながすものの、貞明皇后は「未曽有の国難のときに疎開はできぬ」と首を縦に振らなかったという。宮内省は、内々に軽井沢の地を貞明皇后の疎開先と決め、別荘を借り上げる段取りをした。6月中旬には具体的な検討に入り、関西の豪商であった近藤友右衛門氏の別邸を借り上げ、改築して使用することになった。

貞明皇后(当時は皇太后)と一緒に写る3人のご子息。(左から)昭和天皇、秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王。なお、末っ子の三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王は写真に写っていない=写真/宮内公文書館蔵

決まらない疎開日

当時の宮内省と鉄道省は、1945(昭和20)年6月25日に軽井沢へと向かうお召列車について打ち合せを行った。当初は7月中の疎開を願い出ていたが、貞明皇后の「疎開はできぬ」という意志は固く、ようやく7月31日になり疎開日を8月18日と内定し、8月11日付の内部文書を以て決定した。東京から軽井沢への移動は、米国からの空襲を避けるため、昼間よりも夜間が安全と考えられた。しかし、60歳を過ぎた貞明皇后の負担を考慮し、夕刻から日没の時間帯が選ばれた。

さらに終戦を迎える8月15日になると、疎開日は20日へと延期された。貞明皇后は周囲の心配をよそに、最後まで疎開することを拒んだといわれる。

貞明皇后の疎開を通知する宮内省(当時)が作成した内部文書。疎開日は当初、8月18日で計画されていたことが読み取れる=宮内公文書館蔵
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終戦後もお召列車は戦闘装備...
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