皇室のヒミツ、皇族の素顔

「未曽有の国難のときに疎開はできぬ」貞明皇后の終戦後の“疎開生活”

貞明皇后(当時は皇太后)=写真/宮内公文書館蔵

1945(昭和20)年4月、沖縄戦で「戦艦大和」率いる日本海軍の最後の艦隊が全滅し、日本軍は地上戦へと突入した。時を同じくして、長野県は埴科郡松城町(はにしなぐんまつしろちょう、現在の長野市松代地区)に、政府の中枢機能を移転する計画が立てられた。戦局が厳しくなるなかで、当時の天皇、皇后両陛下、そして皇太后の“戦時疎開”はどのように計画されていたのか。実際に行われた昭和天皇の母である貞明皇后(大正天皇のきさき、当時は皇太后)の戦時疎開について、史実をもとに振り返ってみたい。

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1945(昭和20)年4月、沖縄戦で「戦艦大和」率いる日本海軍の最後の艦隊が全滅し、日本軍は地上戦へと突入した。時を同じくして、長野県は埴科郡松城町(はにしなぐんまつしろちょう、現在の長野市松代地区)に、政府の中枢機能を移転する計画が立てられた。戦局が厳しくなるなかで、当時の天皇、皇后両陛下、そして皇太后の“戦時疎開”はどのように計画されていたのか。実際に行われた昭和天皇の母である貞明皇后(大正天皇のきさき、当時は皇太后)の戦時疎開について、史実をもとに振り返ってみたい。

※トップ画像は、貞明皇后(当時は皇太后)のご肖像=写真/宮内公文書館蔵

皇居内の防空壕

皇居内には、すでに1935(昭和10)年ころには防空壕があったといわれ、昭和天皇と香淳皇后は空襲警報発令のたびに「剣璽(けんじ)」とともに当時の宮内省庁舎内に設けられていた“防空室(地下金庫)”に避難していた。「剣璽」とは皇位の証とされる三種の神器のうちの「剣(つるぎ)」と「勾玉(まがたま)」のことである。

その後、この施設では空襲に耐えられないとして、1942(昭和17)年には“御文庫(おぶんこ)”と呼ばれる地下防空壕を備えたお住まいが造られた。戦況が悪化した1945(昭和20)年6月には、さらに頑丈な地下防空壕(御文庫付属室庫)が造られた。

1945(昭和20)年6月に造られた地下防空壕(御文庫附属室庫)に備わる会議室。終戦間近の8月10日未明、この場所でいわゆる御前会議が開かれた=写真/宮内公文書館蔵

”幻の首都移転” 長野県への首都機能移転計画

1944(昭和19)年に本土決戦がささやかれるようになると、長野県埴科郡松城町(現在の長野市松代地区)などの山中に、政府の中枢機能を疎開させることが計画された。これには、当時の昭和天皇と香淳皇后のお住まいや、旧・宮内省庁舎の移転も含まれていた。昭和天皇、香淳皇后の移動には、戦車を改造した装甲車を準備するなど、より現実味を帯びた計画であった。

皇族方の疎開についても同時に計画され、長野市茂菅(もすげ)地区の善光寺温泉や、当時あった善光寺白馬電鉄のトンネルを皇族住居に転用することが計画された。

これらは、実行される前に終戦を迎えたため、”幻の首都移転”に終わった。

開業時(1936/昭和11年)の善光寺白馬電鉄と山王駅の様子=長野市中御所(なかごしょ) 写真提供/善光寺白馬電鉄株式会社

首を縦に振らない皇太后

1945(昭和20)年5月25日の22時過ぎから始まった米軍機(B-29)250機の空襲により、赤坂御用地(東京都港区元赤坂)に当時あった大宮御所(皇太后の住まい)、東宮仮御所(皇太子の住まい)、青山御殿は焼失した。皇太后であった貞明皇后は、併設していた六畳一間ほどの窓もない御文庫(地下防空壕)で生活することになった。これを不憫(ふびん)に思った昭和天皇が疎開をうながすものの、貞明皇后は「未曽有の国難のときに疎開はできぬ」と首を縦に振らなかったという。宮内省は、内々に軽井沢の地を貞明皇后の疎開先と決め、別荘を借り上げる段取りをした。6月中旬には具体的な検討に入り、関西の豪商であった近藤友右衛門氏の別邸を借り上げ、改築して使用することになった。

貞明皇后(当時は皇太后)と一緒に写る3人のご子息。(左から)昭和天皇、秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王。なお、末っ子の三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王は写真に写っていない=写真/宮内公文書館蔵

決まらない疎開日

当時の宮内省と鉄道省は、1945(昭和20)年6月25日に軽井沢へと向かうお召列車について打ち合せを行った。当初は7月中の疎開を願い出ていたが、貞明皇后の「疎開はできぬ」という意志は固く、ようやく7月31日になり疎開日を8月18日と内定し、8月11日付の内部文書を以て決定した。東京から軽井沢への移動は、米国からの空襲を避けるため、昼間よりも夜間が安全と考えられた。しかし、60歳を過ぎた貞明皇后の負担を考慮し、夕刻から日没の時間帯が選ばれた。

さらに終戦を迎える8月15日になると、疎開日は20日へと延期された。貞明皇后は周囲の心配をよそに、最後まで疎開することを拒んだといわれる。

貞明皇后の疎開を通知する宮内省(当時)が作成した内部文書。疎開日は当初、8月18日で計画されていたことが読み取れる=宮内公文書館蔵

終戦後もお召列車は戦闘装備

当時、戦争が終結したとはいえ、8月15日以降も、米国による攻撃があると考えられていたという。このため、貞明皇后が軽井沢へ向かうお召列車には、「高射機関砲」を搭載した“客車を改造した戦闘車”を連結するなど、臨戦態勢で運行が行われた。

当時の記録によれば、貞明皇后が乗車する専用の御料車(ごりょうしゃ)には、“防弾装甲”が施されていたが、機銃掃射から身を守るための大きな鉄箱を搭載した車両も連結し、さらには、お付きの人が乗る車両にも“地上戦闘員を約30名”乗車させた。

貞明皇后を乗せたお召列車は、予定どおり8月20日15時30分に、皇室専用駅である原宿駅宮廷ホーム(東京都渋谷区千駄ヶ谷)を出発し、目的地の軽井沢駅には19時20分、無事到着した。貞明皇后は、この日から12月まで軽井沢での”疎開生活”を送ることになった。

数少ない当時の資料より「火砲搭載車スケッチ図」。このような装備を施した戦闘車両がお召列車に編成された=図絵提供/国鉄大宮工場資料室
貞明皇后を乗せ軽井沢へ向かったお召列車の編成図。編成の中で「〇の中に防」と書かれているのが、高射機関砲を積載した戦闘車両=資料/宮内公文書館蔵

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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