大砲ラーメンの歴史 初日の売り上げはわずか18杯
大砲ラーメンの歴史は戦後の復興期となる昭和28年、初代・香月昇(かつき・のぼる)さんが久留米の明治通り沿いに屋台を開業したことに始まります。屋号の「大砲ラーメン」は昇さんが「家を飛び出したら最後、二度と戻らない鉄砲玉のような人」だったことにちなみ、鉄砲では小さい、でっかく大砲にと、命名されました。
初日の売り上げはわずか18杯。初代は前日の売り上げを手に、熊本まで良質の豚骨を買い付けに出かけながら「とにかくいいスープを作りたい!」と毎日このことばかり考えていたようです。その一念で誕生したのが大砲ラーメンの代名詞となる「呼び戻し」スープです。
※ 「呼び戻し」は(株)大砲の登録商標です。
その一方、二代目・香月均史(ひとし)さんは当時、家業を継ぐ意思がなく、グラフィックデザイナーと音楽活動という夢にむかって突き進んでいました。しかし、昭和51年、先代夫婦が突然同時に倒れ、均史さんは家業を継ぐことを決意したのです。
久留米の街をラーメンの殿堂に
二代目・香月均史さんは、平成元年、大砲ラーメンの代表取締役社長に就きました。均史さんの代になり、大砲ラーメンはどんどん発展していきました。しかし、均史さんはアーティストになる夢を諦めてまでラーメン職人になったのだからもっと何かできるのではないか?と常に考えていました。
平成9年に初代・昇さんが他界したことを機に、初代が戦後の低迷期にラーメンで希望を与えたのと同じように「もしかしたらラーメンが再び久留米復興の原動力になってくれるかもしれない、自分たちラーメン店を育ててくれた久留米のまちに今こそ恩返しするときではないか」と思うようになり、全国初の「民・官・学」が一体となったまちおこし組織 「久留米・ラーメン ルネッサンス委員会」を立ち上げたのです。
そして1999年「ラーメンフェスタ in 久留米」が開催されました。このフェスタには市内のラーメン店7店舗と、県外の3店舗が協力。2日間で延べ14万人のお客さんが訪れ、駅や周辺道路が大混雑するほどの盛況でした。その後もラーメンフェスタは毎年開催され(2004年まで)、この活動が認められて地域づくり総務大臣賞を受賞したのです。