「秀忠暗殺」を企図?
事件が起きたのは、家康七回忌の元和8(1622)年4月16日のことです。秀忠は日光東照宮に参拝した後、宇都宮城に一泊する予定でした。ところが、秀忠の姉である加納御前(先述の亀姫)から、「城の普請に不備あり」と密訴がありました。秀忠の寝室に釣天井を仕掛け、秀忠暗殺を企てているというものです。
これを聞いた秀忠は、御台所(正室の江)が病気として、宇都宮城には泊まらず江戸城に帰ってしまいます。
11の罪状を突きつけられた正純
その年の8月、最上騒動により改易された最上義俊から、山形城を受け取るために赴いた正純の留守中、秀忠は鉄砲の密造や宇都宮城本丸石垣の無断修理、釣天井の嫌疑など11もの罪状を作って、正純に突きつけたのです。
正純には謀反の意思などなく、釣天井なども存在しなかったのですが、本丸の無断修理や鉄砲製造は事実でした。それも宇都宮城が将軍の宿になることから、警備強化のために行ったと考えられますが、正式な手続きを経なかったのは大きな過ちでした。正純は出羽由利5万5000石に転封を命じられてしまいました。まさか自分が訴えられはしないだろうという傲りがあったのでしょう。
正純はこの処分に納得できず、5万5000石の受け取りを拒否します。彼には家康、秀忠に忠義を尽くしてきたという誇りがあったのです。怒った秀忠は正純の嫡男正勝ともども出羽、横手に流罪とします。権力を手にした男が一転、無実の罪を着せられたのです。