盃の内側には要注意!
暗殺の危険はいたるところにあった。とくに〈ボルジア家の毒薬〉が見事に証明したように無色透明、無味無臭の砒素(ひそ)の存在ほど大食、美食家にとって不気味なものはなかった。
使用人、料理人の身元は厳重に調査され、ときには三代さかのぼって係累を調べることまでやったようだが、不慮の事故は防げなかった。酒に毒薬ならば毒味の人間の反応でわかるが、盃の内側にぬられたものは対策の方法がない。
ランルピエ城にルイ14世を迎えた宴会の席で、
「国王は大いに興ぜられ、ワインをびんのまま次々に飲み干された」
と記されているのも、本当のところは盃に対する不安、不信があったからではないかと思われる。トップはナンバー・ツーに、ナンバー・ツーはナンバー・スリーにおびえながら、この暗殺の構図は現在まで続いている。課長は、課長補佐に断じて気を許してはいけないのである。
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1936(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。