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日本唯一のサブテンランナー

二つ目は、その顔ぶれ。三つ巴の争いを繰り広げた瀬古、宗兄弟といえば、のちに日本マラソンの“ビッグスリー”といわれることになる、陸上界のレジェンド。野球でいえば王、長嶋、プロレスでいえば馬場、猪木のような伝説的な存在だ。

レースの時点でも、マラソンの持ちタイムは宗茂2時間9分05秒、瀬古2時間10分12秒、宗猛2時間12分48秒で、それぞれ日本歴代1、2、8位。宗茂は当時、世界で5人、日本では唯一のサブテンランナー(2時間10分以内で走った記録を持つ選手)であり、瀬古のタイムも世界歴代10傑(9位)に入っていた。

「専門家によるまでもなく、一般の人の“人気投票”でも、この三人がモスクワ代表になるのが理想の姿」(読売新聞1979年12月3日朝刊)と書いた新聞記事もあったほどで、期待通りの3選手が予想を上回る走りを見せてくれたという感激が、このレースをより印象深くしたということはあるだろう。

ちなみに3選手の直接対決は7回あり、瀬古が優勝5回を含む6戦で先着し、宗兄弟が先着したのは宗猛が4位になったロサンゼルス五輪だけだった。3人全員が3位以内に入ったのは79年の福岡国際マラソンしかない。ただ一度の“ビッグスリー”三つ巴の争いという意味でも貴重なレースだった。

kx59@Adobe Stock

モスクワ五輪ボイコットで五輪代表が「幻」に

さらにこの名勝負の印象をより強くするのは、五輪代表の座が幻になってしまったことだ。レースから22日後、ソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカの呼びかけに応じ、日本はモスクワ五輪をボイコット。3選手がモスクワのスタートラインに立つことはなかった。のちに瀬古と宗茂は、幻になったモスクワ五輪について次のように語っている。

茂:メダルを獲れたかどうかはわかりませんが、もしモスクワ五輪に出場していたら、ロス五輪の結果は違っていたでしょう。ロスでは3人が3人とも暑い中で練習をやり過ぎて、疲労困憊の状態でレースをした結果、失敗しました(猛が4位、瀬古が14位、茂が17位)。モスクワを経験していれば、あんな失敗はしなかった。それだけは自信を持って言えます。

瀬古:マラソンを自由自在に走れた時期でしたし、’79年のあのレースで苦しい思いをしたので、もしモスクワに出場できたらたぶん絶好調だったと思います。出場できなかったことで、歯車が狂ってしまいました。

茂:当時の瀬古さんは、「瀬古が勝たないで誰が勝つんだ」というぐらい強かった。でも、結局、オリンピックの女神は降りてきませんでしたね。

瀬古:最大のライバルであり、目標だった宗さんたちがいたから自分がある。いま振り返って、そう思います。お二人には本当に感謝しています。

(『週刊現代』2019年8月24・31日号 マラソンの名勝負「1979年の瀬古vs宗兄弟」デッドヒートを語る)

Sandor Jackal@Adobe Stock
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石川哲也
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