次世代ロータリーエンジンの開発
RX-7は初代のSA22C(サバンナRX-7)、2代目FC3Sと進化させ、日本を代表するピュアスポーツカーとして広く認知されていた。そして1991年に3代目のFD3Sを登場させた。車名はマツダが当時推進していた多チャンネル戦略により、アンフィニRX-7となった(アンフィニブランド消滅後は車名からアンフィニが外された)。
FDでは13B型ロータリーにコスモ同様にシーケンシャルツインターボを採用していて255ps高出力(最終的には280psへと進化)をマークしていたが、燃費、排ガスなどの環境性能には課題を残していた。そのため、マツダはFDのデビューからほどなくして、次世代ロータリーエンジンの開発に着手している。テーマはターボではなく自然吸気。
RX-01に大興奮
その新世代を見越したロータリーエンジンを搭載したRX-01というコンセプトカーを東京モーターショーで公開したのは1995年だった。FDで大きくなりすぎたボディをコンパクト化、つまり初代に原点回帰したロータリースポーツカーで、次期型(4代目)RX-7または、RX-7の後継モデルと期待させてくれた。デザインも特徴的でカッコよかった!!
筆者はマツダの聖地、マツダの三次テストコース(広島県・三次市)で開催されたRX-01の試乗会に竹ちゃんマンこと竹平素信氏とともに取材のため参加。その時はテストドライバーのナビシートに同乗試乗のみで、竹平氏もステアリングを握ることはできなかったが、ライトウェイトロータリースポーツの素性のよさに竹平氏も舌を巻いていた。
何よりもマツダのロータリースポーツの新型モデルが順調に開発されていたことがうれしかった。
副社長の英断で消滅回避
RX-01公開の翌1996年にフォードはマツダへの出資比率を33.4%に引き上げ、マツダの経営権を握った。その結果、ヘンリー・ウォレス副社長が社長に昇格し、日本の自動車メーカー初となる外国人社長が誕生した。
この当時ロータリーエンジンは明らかに不採算分子だったため、マツダの社員、クルマファンの誰もが「ロータリーエンジンは終わった」と考えた。
しかし、フォードから送り込まれたマーティン・リーチ常務がRX-01のことを高く評価していたことが大きく影響し、最終的にはリチャード・パリ―・ジョーンズ副社長がロータリーエンジンの継続の判断を下したと言われている。マツダは苦境に立たされても必ず”神風”が吹く不思議なメーカーだと痛感する。リーチ氏、ジョーンズ氏がマツダに送り込まれていなければ、ロータリーエンジンは終焉を迎え、RX-8は登場していなかっただろう。